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2021年12月10日 (金)

人の子イエス様とサタンとの対決/人の子イエス様に与えられた試みの一つ1

 イエス様は、神のひとり子の御子ですが、人の子として洗礼を受けられました。
その結果、イエス様に神の霊が降ったのです。
マタイ3:16には、“イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊〔直訳「神の霊」(筆者挿入)〕が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。”(2017)と記されています。
この「神の霊」とは聖霊のことです。
ルカ3:21.22には、“21 さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、22 聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。”(2017)と記されています。

 マタイ4:1-11には次のように記されています。
“1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
3 すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4 イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」
5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、6 こう言った。
「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」
7 イエスは言われた。
「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、9 こう言った。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」
10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。”(2017)とあります。

 1.2節には次のように記されています。
“1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。”と。

 イエス様は、神のありようを脇に置いて、人の子として、悪魔(サタン)の試みを受けたのです。
サタンの試みを受ける前に、40日間の断食がありました。
サタンはイエス様が40日間の断食をしているのを見ていました。
そして、イエス様の断食が終了したところで、サタンが誘惑してきたのです。

 3節には、“すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」”と記されています。
イエス様が肉体を纏っていても、サタン(悪魔)は、イエス様が神の御子であることを知っていました。「あなたが神の子なら」と挑発しています。
40日間の断食で、人の子イエス様はお腹がすいていたのです。
それを見ていたサタンは、「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」とイエス様に言いました。

 それに対して、イエス様は、人の子としてor人の立場において、サタンに勝利していくのです。
4節には、“イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」”と記されています。

 余談になりますが、人祖アダムとその妻エバは、空腹ではなかったのに、サタンの誘惑に屈して堕罪したのです(創世記3章)。

 イエス様は、人の身分としての自分の言葉ではなく、神のことばをもってサタンに答えたのです。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」という御言葉は、申命記8:3の聖句の中の一部分です。
神様に従っている人の子としてのイエス様の空腹を満たされるお方は、神様であるべきでした。食物を与えるのが直接か間接かは別にして。

 イエス様は山上の垂訓の中で、「31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6章・2017)と語られました。

 イエス様は、神のことばでサタンに対応しました。
「神のことばは霊の剣です。」(エペソ6:17・ギリシア語聖書直訳)
新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳、前田訳は、直訳的に、「霊の剣」と訳していますが、新改訳、口語訳、塚本訳は、「御霊の剣」と訳しています。
また、ヘブル4:12には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、・・・」(2017)と記されています。
ヘブル4:12の「神のことば」の「ことば」のギリシア語原語は「レーマ」で、そのときに神が語られる即時的なものです。聖霊も神です。新約聖書に記されていることばには「ロゴス」という語もあり、これは恒常的な言葉です。尚、神が語られるレーマは多くの場合ロゴスを用いられます。

 もし、イエス様がサタンの言葉に挑発されて、神の御子としての立場で、石をパンに変えてしまったとしたら、「15 私たちの大祭司〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4章・2017)という聖句はなかったでしょう。
また、サタンの誘惑に対して、神の御子ならば勝利できるけれども、人の身分では勝てるかどうかわからない、ということになったことでしょう。
第一ラウンドはサタンの敗北でした。

 レーマについて、マタイ10:19.20に次のように記されているのを思い起こしました。
「19 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。20 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」(口語訳)とあります。
20節の「父の霊」(原語直訳型)、と訳している日本語訳聖書は、口語訳の他、新共同訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳、文語訳、前田訳、塚本訳などがあり、新改訳は、「父の御霊」と訳しています。
19.20節に「レーマ」という語は出て来ませんが、「言うべきことは、その時に授けられる」(19)とあります。即時的な神のことばですから「レーマ」です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様が私たちに模範を示してくださっておられますからありがとうございます。
私たちも悪しき霊からの誘惑が来ますが、イエス様に倣って勝利することができますよう助けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 9日 (木)

イエス様は神の子であり人の子である

 マタイ3:16-4:4には次のように記されています。
“3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
3 すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4 イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」”(2017)とあります。

 マタイ3:16には、“イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。”とあります。

 神の御子は、万物を創造された神です(コロサイ1:16)。
神の御子は、バプテスマを受ける必要がありません。
イエス様がバプテスマを受けた時、人の子として行動しているのです。

 ピリピ2:6-8には次のように記されています。
“6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
〔キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、(聖書協会共同訳)〕
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
〔かえって自分を無にして、僕(しもべ)の形をとり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、(聖書協会共同訳)〕
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
〔へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(聖書協会共同訳)〕”(2017)とあります。

 神の御子は神ですが、人の肉体を纏った地上の歩みにおいては、神としてのありようを脇に置いたのです。そのようにすることによって、罪の贖いをすることができること、及び、人に、全き人の範を示すことが出来る為でした。

 後にペテロは、「神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。」(使徒10:38・口語訳)と語っています。

 イエス様が地上生涯を歩むにあたって、神の子として即ち神として歩んだのであったとしたら、上記のようには語られませんでした。

 パウロは、「私がキリストに倣(なら)う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」(1コリント11:1・2017)と語りました。
イエス様は、人が聖霊に満たされた歩みをするとき、どのようであるのかということを見せてくれたのです。
もしそうでなければ、イエス様は、「まことに〔ギリシア語原語は「アーメン」(筆者挿入)〕、まことに〔アーメン(筆者挿入)〕、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12・2017)とは言わなかったことでしょう。
パウロは人としてのイエス様を見ならったのです。

 誰も神の御子、すなわち神であるお方を見習うことなど出来ません。
キリスト者はイエス様を信じた故に神の子どもです。
しかし、神のひとり子の御子と決定的に違うのは能力です。
御子は、万物をつくられ、万物を保持しておられるお方です。
コロサイ1:16には、“天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。”(新共同訳)と記され、
ヘブル1:3には、“御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。”(2017)と記されています。

 キリスト者は神の御性質にあずかる者(2ペテロ1:4)とされ、また永遠のいのちを与えられた者(ヨハネ3:16)であるという神の子どもですが、神の全能性や全知性を与えられてはいないのです。
キリスト者が力を必要とするときは、聖霊様から頂くようなシステムになっているのです(使徒1:8)。

 マタイ3:16.17には、“イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。
すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
そして、見よ、天から声があり、こう告げた。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」”と記されています。

 イエス様に洗礼を授けたのはバプテスマのヨハネでした。
バプテスマのヨハネにとって、マタイ3:16.17の出来事は重要な意味を持っていたのです。
ヨハネ1:29-34には次のように記されています。
“29 その翌日、ヨハネ〔バプテスマのヨハネ(筆者挿入)〕は自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
30 『私の後に一人の人が来られます。その方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。
31 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
32 そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。
33 私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
34 私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」”(2017)とあります。

 マタイ4:1-4には次のように記されています。
“4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。
3 すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」
4 イエスは答えられた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」”とあります。

 試みる者即ち悪魔(サタン)は、イエス様に対して「神の子」と言っていますが、イエス様は、あくまでも人としての立場を崩すことなく、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」と述べています。

 サタンとは、敵対者の意です。神に敵対する者の意です。悪魔とも言います。
サタンはもと大天使でしたが、堕罪してサタンとなったのです(イザヤ14:12-15、エゼキエル28:12-17)。

 エゼキエル28:12-17には次のように記されています。
“12 「・・・。神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。
13 あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石に取り囲まれていた。赤めのう、トパーズ、ダイヤモンド、緑柱石、縞めのう、碧玉、サファイア、トルコ石、エメラルド。あなたのタンバリンと笛は金で作られ、これらはあなたが創造された日に整えられた。
14 わたしは、油注がれた守護者ケルビムとしてあなたを任命した。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いていた。
15 あなたの行いは、あなたが創造された日から、あなたに不正が見出されるまでは、完全だった。
16 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、こうしてあなたは罪ある者となった。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出した。守護者ケルビムよ。わたしは火の石の間からあなたを消え失せさせた。
17 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、まばゆい輝きのために自分の知恵を腐らせた。・・・。”(2017)とあります。

 大天使として創造された者が自由意思で堕罪しサタンとなったのです。
サタンは、イエスがどのようなお方であるかを知っており、「あなたが神の子なら・・」と挑戦してきたのです。
イエス様が神のひとり子の御子としての御力を発揮したら、サタンは一たまりもありませんが、イエス様は、罪の贖いのために、また全き人とはどのような人であるのかを示すために肉体を纏われたのですから、サタンの挑発には乗りませんでした。
 繰り返しの部分もありますが、ピリピ2:6-11を下記します。
“6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様を信じさせて頂け、永遠のいのちを与えられ、神の御性質にあずかる者とさせて頂けましたことを感謝します。
あなたが私たちを整えてくださり、私たちをあなたの子どもとしてふさわしくさせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 8日 (水)

主を畏れることは知識の初め

 箴言1:7に、“主を畏れることは知識の初め。無知な者は知恵をも諭しも侮る。”(聖書協会共同訳)と記されています。

 “主を畏れることは知識の初め。”とありますが、知識とは何でしょうか?
物理学の知識、数学の知識、諸国語の知識、音楽の知識、・・・・等を言うのでしょうか。
聖書が知識と言うときには、おもに神についての知識、真理についての知識等の聖書に啓示されている事柄を指しているのであろうと思います。

 聖書の啓示は漸進的な一面がありますので、新約聖書は、「知識」についてどのように言っているのかという観点から、幾つかの聖句を見ていきたいと思います。

 2コリント2:14には、「キリストを知る知識」という語が出て来ます。

 2コリント4:6には、「・・・神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。」(2017)とあり、
同じ個所を新共同訳は、「・・・神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」と訳しています。

 コロサイ1:9には、「・・・、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。」(2017)と記されています。

 コロサイ1:10には、「・・主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」(新改訳第三版)と記されています。

 コロサイ3:9.10には、「・・・。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」(2017)と記されています。

 テトス1:1.2には、「神のしもべ、イエス・キリストの使徒パウロから。──私が使徒とされたのは、神に選ばれた人々が信仰に進み、敬虔にふさわしい、真理の知識を得るためで、それは、偽ることのない神が永遠の昔から約束してくださった、永遠のいのちの望みに基づくものです。」(2017)と記されています。

 真理の知識という用語が使われているわけではありませんが、
エペソ1:13には、「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音〔直訳は「救いの福音」ですが、この箇所をリビングバイブル旧版は「救いを約束する良い知らせ」と意訳しています。(筆者挿入)〕を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」(2017)と記されています。

 神についての知識、救い、きよめ、栄化に関する知識、・・・等々、真理に関する知識を与えて頂くためには、先ず、神を畏れ敬う心のあり方が必要であることを、箴言1:7の「主を畏れることは知識の初め。」という聖句は教えてくれているものと思います。

 このような知識は大切なものですが、知識と愛の関係についてパウロは次のように述べています。
「たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」(1コリント13:2・2017)とあります。

 また知識を豊かに与えられたとしても、心しなければならない事柄を次のように述べています。
 「・・・。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。」(1コリント8:1-3・2017)とあります。

 イエス・キリスト様は、父なる神様がどの様なお方かを語ってくださいました(一部分ですけれども)。
また、イエス・キリスト様は、御父がどの様な方であるかを見せてくださいました。
ヨハネ14章には、イエス様とトマスやピリポとのやり取りが次のように記されています。
“4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。
10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。”(2017)とあります。

 父なる神様が怖い、という人がいますが、イエス様の優しさ、慈しみ深さは、御父から来ているのです。御父と御子は本質において同質なのです。
放蕩息子を待ち焦がれていたのはだれであったでしょうか、
イエス様の羊であるにもかかわらず、イエス様から離れて自分勝手な道に行き、迷子になってしまった羊を、捜し歩き、その羊を肩に担いできたのはだれであったでしょうか、
御父も御子もそのような愛のお方です(ルカ15章参照)。
さらに十字架においてはもっと大いなる愛を示されたのでした(1ヨハネ4:9.10)。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの御愛とあなたの御力によって保たれていることを覚えて感謝します。
いつもあなたを畏れ敬い、あなたを愛し、あなたに信頼して歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 7日 (火)

詩篇1篇 主に喜ばれる歩み

 詩篇1篇をフランシスコ会訳は次のように訳しています。
“1
幸いである、悪い者の集いに行かず、罪人の道に立たず、神をあざける者の席に座らず、2主の教えを喜び、昼も夜もその教えを口ずさむ人。
3
その人は流れのほとりに植えられた木、時が来れば実を結び、葉もしおれることがなく、その業はみな生い茂る。
4
悪い者はそうではない、彼らは風に飛ばされる籾殻。
5
それ故、悪い者は裁きに耐えられず、罪人は正しい者の集いにあずかれない。
6
正しい者の集いは主に守られ、悪い者の道は滅びに至る。とあります。

 日本の大多数の人の「正しい者」と「悪い者」の概念は、聖書の教えとは異なるものであろうと思います。
また、日本人に限らず、諸国の多くの人たちの「正しい者」と「悪い者」の概念は、聖書の教えとは異なるものであろうと思います。

 「悪い者」(フランシスコ会訳)、「悪しき者」(新改訳2017)と訳されている語のヘブライ語原語は「ラーシャー」で、上記のような意と共に、不信心な人(神を信じない人)の意もあります。
2017
が「悪しき者」と訳した箇所を、新共同訳は「神に逆らう者」と訳しています。

 永遠にして自存のお方であるヤハウェ(主)は、万物を創造し、万物を保持しておられる神様です。
ヤハウェ(主)は、預言者エレミヤに次のように語るようにと仰せられました。

“5
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言われる。
「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕から離れている者は。
6
そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。
7
主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼する者に祝福があるように。その人は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕を頼みとする。
8
その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。(エレミヤ17章・2017)と記されています。

 主に信頼する者を「正しい者」、主から離れている者を「悪しき者」と述べています。
イザヤは、「いつまでも主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に信頼せよ。ヤハ〔ヤハウェの短縮形(筆者挿入)〕、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、とこしえの岩だから。」(イザヤ26:4・2017)と記しています。
「とこしえの岩」の「岩」のヘブライ語原語は「ツール」で、岩の他神(God)の意もあります。「ヤハウェ(主)はとこしえの神だから」というわけです。
「ヤハウェ」の箇所を「主イエス」に置き換えてもかまいません。
「いつまでも主イエスに信頼せよ。主イエス(ヘブライ語では「イェシュア」=主は救うor救い主)は、とこしえの神(岩)だから。」とも言えます。御子を信じることは御父を信じることです。父と子は一つです、とイエス様は語られました。
三一の神の本質は一つであり、故に唯一の神です。
ヤハウェ(主)は神の呼称であり、また、ヤハウェには、自存にして永遠の意があります。
「岩」と言えば、キリスト者の多くの人が思い出す聖句に、次のようなものがあるでしょう。
“15
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16
シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉〔「人間」の意(筆者挿入)〕ではなく、天におられるわたしの父です。
18
そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ〔ギリシア語原語は「ペトロス」=岩の一部の意。小さい岩、石。(筆者挿入)〕です。わたしはこの岩〔ギリシア語原語は「ペトラ」=大きな岩、岩のかたまりの意(筆者挿入)〕の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。(マタイ16章・2017)と記されています。
教会は、神(岩=ペトラ=ツール)であるキリストの上に立っているのです。

 ペテロは言いました。
「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」(新共同訳)と。
ペテロのみならず、キリスト者は「生きた石」(新共同訳)、「生ける石」(新改訳、口語訳)です。
ペテロはイエス様が自分に言われたことを思い出しながら上記の聖句の様に語ったのかも知れません。

 今日の箇所は、主に信頼していきましょう、というコンセプトで書いてきましたが、信仰、信頼も愛がなければ空しいのです。
 1コリント13章に、
“1
たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2
たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです
3
たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。2017)とあります。

 御父は、私たちを愛して、私たちの罪の贖いのために御子を遣わしてくださいました。ここに私たちに対する御父の愛があるのです。
 御子は、人の体を纏い、イェシュア{救い主(イエス)}となって、私たちの罪を一身に引き受け、私たちの身代わりとして十字架上で神の裁きを受けてくださいました。ここに私たちに対する御子イエス様の愛があるのです。
神様の愛はそれだけではありませんが。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、イエス様を愛し、あなたの御言葉に信頼し、日々歩み続ける者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 6日 (月)

神であるヤハウェ(主)の力2(支配力の中のわずかの一部分)

 聖書を信じない現代人や科学的なことについては聖書よりも現代科学の知見の方を信じるというクリスチャンの方にとっては、今日の箇所は馬鹿らしく思われると思います。

 ヤハウェ(主)が雹を用いて裁かれることは、出エジプト9章、ヨシュア1011、エゼキエル3822、ハガイ217、黙示録1621等に記されています。
 ヤハウェ(主)は地震も裁きに用いられることが、エゼキエル3819、黙示録61211131618等に記されています。
 ヤハウェ(主)は雨を降らさないという裁きをなさることもありますし、逆に洪水or長雨で裁かれるということもあります。

 主の裁きとは無関係の自然現象もありますが、主は主の裁きとして、人間が自然現象と呼んでいるものを用いられることもあるのです。疫病を主の裁きと考える人はほとんどいないでしょう。感染症は、感染性微生物やウィルスによって引き起こされるものであると考えるのが常識的なことであり、事実そうなのですが、ある種の疫病と呼ばれる感染症の中には主の裁きor懲らしめがあるのです。
 自然現象と呼ばれるものも、多くの場合は一定の法則のもとに引き起こされるものです。しかし、ヤハウェ(主)が自然現象と呼ばれるものを引き起こされるor用いられることもあるのです。

 次にいくつかの聖句を列挙していきます。
まずイスラエルに対して語られた御言葉を下記します。
申命記28章には、
“15 しかし、もしあなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。16 あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。
21 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが入って行って所有しようとしている地から、あなたを絶ち滅ぼす。
22 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は肺病、熱病、高熱病、悪性熱病、また干ばつ、立ち枯れ、黒穂病であなたを打つ。これらのものは、あなたが滅びるまで、あなたを追いかける。
23 あなたの頭上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる〔長く続く干ばつ(筆者挿入)〕。
24 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。
27 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエジプトの腫物、腫れもの、湿疹、疥癬をもってあなたを打ち、あなたは癒やされることがない。
28 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたを打って錯乱させ、盲目にし、心を混乱させる
42 あなたのすべての木と、大地の実りは、害虫が取り上げてしまう。
59 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたへの災害、あなたの子孫への災害を驚くべき仕方で下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。
60 主は、あなたが怖がっていたエジプトのあらゆる悪疫を、再びあなたにもたらされる。それがあなたにまといつく。
61 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、このみおしえの書に記されていない、あらゆる病気、あらゆる災害までもあなたの上に臨ませ、ついにあなたは根絶やしにされる。”(申命記28章抜粋・2017)と記されています。

 イスラエルがヤハウェ(主)に従った場合について申命記28章は次のように述べています。
“2 あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
11 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
12 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。”(申命記28章抜粋・2017)と記されています。

 次に、主がイスラエルの敵に対して用いられた自然現象と呼ばれるものやこれから用いられるもの等の中からいくつかの聖句を列挙していきます。
 出エジプト記9章には、疫病の災いについて、
“3 見よ、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の手が、野にいるあなた〔ファラオ統治下のエジプト(筆者挿入)〕の家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。
4 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。』」
5 また、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は時を定めて言われた。「明日、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がこの地でこのことを行う。」
6 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は翌日そのようにされた。エジプトの家畜はことごとく死んだが、イスラエルの子らの家畜は一頭も死ななかった。”(2017)と記されています。

 出エジプト記9章には、雹の災いについて、
“18 見よ。明日の今ごろ、わたし〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。
19 さあ今、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させよ。野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜はみな、雹に打たれて死ぬ。』」
20 ファラオの家臣のうちで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。
21 しかし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。
22 そこで主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人にも家畜にも、またエジプトの地のすべての野の草の上にも、雹が降る。」
23 モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は雷と雹を送ったので、火が地に向かって走った。こうして主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はエジプトの地に雹を降らせた。
24 雹が降り、火〔おそらく雷の稲妻(筆者挿入)〕が雹のただ中をひらめき渡った。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものであった。
25 はエジプト全土にわたって、人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打った。またそのは、あらゆる野の草も打った。野の木もことごとく打ち砕いた。
26 ただ、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。”(出エジプト記9章抜粋・2017)

 ヨシュア記10章には、
“8 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はヨシュアに告げられた。「彼ら〔アモリ人の5人の王たちの軍隊(筆者挿入)〕を恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。あなたの前に立ちはだかる者は彼らの中に一人としていない。」
9 ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。
10 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は彼らをイスラエルの前でかき乱された。イスラエルはギブオンで彼らを激しく討ち、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダに至るまで彼らを討った。
11 彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が天から彼らの上に、大きな石をアゼカに至るまで降らせられたので、彼らは死んだ。イスラエルの子らが剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。”

 エゼキエル38章にはイスラエルに起こる近未来の戦争時のことと思われる内容が記されています。その中におけるヤハウェ(主)の敵に対する裁きが、
“15 おまえ〔イスラエルに攻め込む連合軍のリーダー(筆者挿入)〕は北の果てのおまえの国から、多くの国々の民とともに来る。彼らはみな馬に乗る者で、大集団、大軍勢だ。
16 おまえはわたしの民イスラエルを攻めに上り、地をおおう雲のようになる。終わりの日に、そのことは起こる。ゴグよ、わたしはおまえに、わたしの地を攻めさせる。それは、わたしがおまえを使って、国々の目の前にわたしが聖であることを示し、彼らがわたしを知るためだ。
17 神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕はこう言う。おまえは、わたしが昔、わたしのしもべであるイスラエルの預言者たちを通して語った、まさにその者ではないか。この預言者たちは長年にわたり、わたしがおまえに彼らを攻めさせると預言していたのだ。』
18 ゴグがイスラエルの地を攻めるその日──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──わたしの憤りは激しく燃え上がる。
19 わたしは、ねたみをもって、激しい怒りの火をもって告げる。その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。
20 海の魚、空の鳥、野の獣、地面を這うすべてのもの、地上のすべての人間は、わたしの前で震え上がり、山々はくつがえり、崖は落ち、すべての城壁は地に倒れる。
21 わたしは剣を呼び寄せて、わたしのすべての山々でゴグを攻めさせる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。剣による同士討ちが起こる。
22 わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼とともにいる多くの国々の民の上に豪雨、雹、火、硫黄を降らせる
23 わたしは、わたしが大いなる者であること、わたしが聖であることを示し、多くの国々の見ている前でわたしを知らせる。そのとき彼らは、わたしが主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であることを知る。」”(2017)と記されています。

 黙示録16:17-21には、
“17 第七の御使いが鉢の中身を空中に注いだ。すると大きな声が神殿の中から、御座から出て、「事は成就した」と言った。
18 そして稲妻がひらめき雷鳴がとどろき、大きな地震が起こった。これは人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの、大きな強い地震であった。
19 あの大きな都は三つの部分に裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。神は大バビロンを忘れず、ご自分の激しい憤りのぶどう酒の杯を与えられた。
20 島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。
21 また、一タラント〔34kg(筆者挿入)〕ほどの大きな雹が、天から人々の上に降った。この雹の災害のために、人々は神を冒瀆した。その災害が非常に激しかったからである。”(2017)と記されています。

 恐ろしくなってしまった人もいると思いますので、最後に詩篇91篇を下記します。
“1 いと高き方の隠れ場に住む者その人は全能者の陰に宿る。
2 私は主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕に申し上げよう。「私の避け所、私の砦、私が信頼する私の神」と。
3 主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される
4 主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。
5 あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。
6 暗闇に忍び寄る疫病も真昼に荒らす滅びをも。
7 千人があなたの傍らに万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。
8 あなたはただそれを目にし悪者〔神に逆らう者(新共同訳)〕への報いを見るだけである。
9 それはわが避け所主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕をいと高き方をあなたが自分の住まいとしたからである。
10 わざわいはあなたに降りかからず疫病もあなたの天幕に近づかない
11 主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ
12 彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする。
13 あなたは獅子とコブラを踏みつけ若獅子と蛇を踏みにじる。
14 「彼がわたしを愛しているからわたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているからわたしは彼を高く上げる。
15 彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える
16 わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせわたしの救いを彼に見せる。」”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたを愛し、あなたに信頼し続けて歩む者であらせてください。
あなたに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 5日 (日)

神であるヤハウェ(主)の力1(創造力)

 創世記11に、“はじめに神が天と地を創造された。”(2017)とあります。
「神」と訳されている語のヘブライ語原語は「エロヒーム」で神の複数形です。
聖書を読み進むと、「神」は三位一体であることが分かります。
マタイ2819bには、父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、”(2017)としるされ、この箇所をNKJVは、次のように記しています。
“baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit,”
と訳し、「父と子と聖霊の名」の「名」を単数形で表しています。

 ヤハウェという語について、聖書辞典は、神の称号である。と述べています。
ヤハウェ(主)とは、神のお名前であるということです。
ゼカリヤ書12章を読むと、ヤハウェ(主)を受けて、
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。”(2017)という聖句があります。
この預言は、キリストの地上再臨時に成就する聖句です。

 使徒ヨハネは次のように述べています。
ヨハネ11-3に、
“1
初めにことば〔「御子イエス・キリスト」(筆者挿入)〕があった〔存在していた(筆者挿入)〕。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。〔キリスト・イエスは、「神のことば」とも呼ばれていました。{黙示録1913}(筆者挿入)〕
2
この方は、初めに神とともにおられた。
3
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。2017)とあります。

 使徒パウロも次のように述べています。
“16
・・、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。2017)とあります。
「見えないもの」の中には天使も含まれています。

 箴言8章の中には、「知恵」を擬神化して次のように記されている箇所があります。
「わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。」(2017)と記されています。
この聖書箇所は、箴言8章の30節ですが、その前の22-29節には次のように記されています。
“22
主〔ヤハウェ{ここでは御父を指しているのでしょう}(筆者挿入)〕は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。
23
わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。
24
まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された
25
山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。〔神様は、生物の誕生に関し、無性生殖という方法もあれば単体生殖という方法もあることを人間に見せてくれています。御父に妻がいなくても生み出すことは可能なのです。(筆者挿入)〕
26
主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。
27
主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、
28
上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、
29
海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、2017)とあります。

 また、三一の神の第三位格の聖霊の記述と思われる聖句が、創世記12に、“地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。”(2017)と記されています。

 三一の主なる神の働きによって創造されたことが分かります。

 ここまでは、旧創造、すなわち私たちが少しだけ知っている今の天地に関する聖句です。
主なる神様は、旧創造を壊してしまいます。
 使徒ペテロは次のように記しています。
・・、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。2017

 このことは最後の審判が行われる前に起こることです。最後の審判はキリストの千年王国終了後のことです。
黙示録2011-15には次のように記されています。
“11
また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった
12
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
13
海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
14
それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。
15
いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。2017)とあります。

 この後に、主なる神様による新天新地の創造があります。
“17
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。18 だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。(イザヤ6517.182017)と記されています。
 また黙示録21章には次のように記されています。
“1
また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2
私はまた、聖なる都、新しいエルサレム〔キリスト者の住んでいる所(筆者挿入)〕が、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」
5
すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」
6
また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。
7
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。/
9
また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁〔キリスト者の総体=教会(筆者挿入)〕を見せましょう。」
10
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたが私たちに用意してくださっておられるものに驚嘆します。
ありがとうございます。
地上にいる間も、偉大なる御力をお持ちの御父に、聖霊様の助けを頂きながら、私たちの主キリスト・イエス様の御名でお祈りさせて頂けますことを感謝します。
かくも大いなる祝福を与えてくださっておられますあなたの御名を賛美します。
大いなる感謝をもって、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年12月 4日 (土)

キリスト者に与えられた恵み12/栄化

 栄化について聖書辞典は次のように述べています(抜粋)。
〔栄化とは、(筆者挿入)〕贖いの適用における最終段階を指す神学用語。有効召命に始まる贖いの信仰者への適用が、キリストの再臨〔空中再臨(筆者挿入)〕に際して、信仰者がキリストの復活のからだに似た栄光あるからだによみがえることにより、あるいは、変えられることにより、完成に至ることを言う。”とあります。

 次に栄化に関連するいくつかの聖句を下記します。
 1テサロニケ416.17には、
“16
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主〔キリスト(筆者挿入)〕ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。2017)と記されています。

 ピリピ320.21には、
“20
しかし、私たちの国籍〔本国(新共同訳)〕は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる〔万物をご自身に従わせうる(口語訳)〕御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。2017)と記されています。

 ローマ830には、
神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。2017)と記されています。
「栄光をお与えになりました。」と記されているのは、神様の中では、完了している事実だからです。必ずそうなるからです。黙示録の中の未来に起こる預言なども同じ書き方です。

 神であるヤハウェ(主)は次のように言われます。
「わたしは初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り、わたしは望むことをすべて実行する。」(イザヤ4610・新共同訳)と。また、
8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。9 天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。10 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それ〔わたしが語ったことば(筆者挿入)〕はわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55章・新共同訳)とも記されています。
天使ガブリエルは、主の近くで主を見てきました。次は天使ガブリエルのことばです。
「それ神のことばにはあたわぬところなし」(ルカ137・文語訳)とあります。
天使ガブリエルは、神様が語りだされた御言葉は必ず成就する、ということを見てきたのです。

 1コリント15章をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“42
・・、死んだら朽ち果てる、私たちの地上の体は、復活の時に与えられる体とは異なったものです。復活の体は決して死にません。43 今持っている体は、病気や死で私たちを悩ませます。しかし復活の時には、それは栄光に満ちたものとなるのです。確かに、今は死ぬべき弱い体ですが、復活の時には力にあふれた体となるのです。44 そして、今は死ぬべき人間の肉体にすぎませんが、復活の時には、神から与えられる霊の体になります・・・。48 人間はだれでも、アダムと同じ土の体を持っています。しかし、キリストのものとなった人はみな、キリストと同じ、天から与えられる体を持つようになるのです。49 今アダムと同じ体を持っている私たちは、そのように、いつの日かキリストと同じ体を持つのです。51 ここであなたがたに、驚くべき神の奥義を告げましょう。私たちはみな、新しい栄光の体を頂くのです。52 終わりのラッパが鳴り渡る時、一瞬のうちにそうなるのです。天からラッパの音が響くと、死んでいたすべてのクリスチャンは、たちまち朽ちない新しい体に復活します。次に、まだ生き残っている者もまた、一瞬にして新しい体に変わるのです。とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちに奥義を理解する力を与えてくださってありがとうございます。
キリストの空中再臨の時に、私たちに霊の体を与えてくださいますから感謝します。
その後、キリストの裁きの座で、報酬を与えてくださいますから感謝します。
更にその後、花婿キリストと、花嫁すなわちキリスト者の総体である教会の婚礼の儀を用意してくださっておられますことを感謝します。
「義に飢え乾く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」とイエス様は語られましたが、黙示録198には、“花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。”とありますからありがとうございます。
更に私たちを聖なる都、新しいエルサレムに、御父と私たちの主キリスト・イエス様と共に住まわせてくださいますからありがとうございます。
永遠の都、新しいエルサレムを外側から眺めたとき、その美しさは驚嘆すべきものです。
あなたのすばらしいご計画を賛美すると共に、そのご計画を成就してくださる三一の神様をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コロサイ31.2
こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。2017

2021年12月 1日 (水)

キリスト者に与えられた恵み11/聖化4

 今日アップされた箇所は、12/1-3(水~金)分になります。 
昨日は漸次的聖化について述べました。
今日はハードルが少し高いのですが、瞬時的聖化について述べていきます。
(瞬時的聖化という表現が良いかどうかはいったん脇に置いてください。)

 ローマ6章について、新改訳2017訳とリビングバイブル訳を併記していきます。
 1
 2017 それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。”
 リビングバイブル では、神がますます私たちを恵み、赦し続けることができるように、私たちは罪を犯し続けるほうがよいのでしょうか。

 2.3
 2017 “2 決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
 リビングバイブル もちろん、絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだのに、どうしてなお罪の中に生きていられるでしょうか。私たちがバプテスマ(洗礼)を受けてキリスト・イエスに結び合わされた時、罪の支配力は打ち破られてしまったのです。

 4
 2017
 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた〔生まれながらの古い人はキリストとともに葬られた(筆者挿入)〕のです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
 リビングバイブル すなわち、罪を愛する古い性質は、キリストの死によって、キリストと共に葬り去られました。そして、父なる神が、栄光の力でキリストを復活させてくださった時、私たちはキリストの新しいいのちを与えられ、そのいのちに生きる者となりました。

 5
 2017 私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
 リビングバイブル 私たちがキリストに結び合わされて、キリストといっしょに死んだのなら、やがてキリストと同じように復活するのです。

 6
 2017
 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは罪のからだ〔この体は肉体ではありません。古い人(筆者挿入)〕が滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。
 リビングバイブル 私たちの中にある古い性質の自分が、キリスト共に十字架につけられたのは、罪を愛する体〔古い人(筆者挿入)〕が砕かれ、もはや罪の支配を受けず、二度と罪の奴隷にならないためです。

 7
 2017
 死んだ者〔古い人が死んだ人(筆者挿入)〕は、罪から解放されているのです。
 リビングバイブル 罪に対して死んだ者は、どんな罪の誘惑や力からも自由にされるのです。

 8
 2017
 私たち〔私たちの古い人(筆者挿入)〕がキリストとともに死んだのならキリストとともに生きる〔私たちの新しい人はキリスト共に生きる(筆者挿入)〕ことにもなる、と私たちは信じています。
 リビングバイブル 罪を愛する古い性質がキリストと共に死んだのですから、確かに私たちは、キリストの新しいいのちを共有しているのです。

 9
 2017
 私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。
 リビングバイブル  キリストは死者の中から復活されたので、もう二度と死ぬことはありません。死には、もはやキリストを支配する力がないのです。

 10
 2017
 “なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。”
 リビングバイブル キリストは、罪の力にとどめを刺すために、ただ一度死なれました。しかし今では、神との絶えることのない交わりの中に生きておられます。

 11
 2017
 同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
 リビングバイブル ですから、あなたがたの古い罪の性質も、罪に対して死んだもの、反応しなくなったものとみなしなさい。そして、その代わりに、私たちの主イエス・キリストに結ばれ、神に対して生きる者、神の御声に敏感に応答する者となりなさい。

 12
 2017 ですから、あなたがたの死ぬべきからだ〔肉体(筆者挿入)〕を罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。
 リビングバイブル これからはもう、あなたがたの死ぬべき体を罪の支配にゆだねて、その欲望に従ってはいけません。

 13
 2017
 また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
 リビングバイブル 体のどんな部分をも、罪を犯す道具にしてはいけません。むしろ、自分自身を神にささげなさい。あなたがたは、死者の中から生かされた者であり、神に使っていただく良い道具として役立つ者となりなさい。

 14
 2017
 罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。
 リビングバイブル 罪は、二度とあなたがたを支配しません。なぜなら、あなたがたはもう律法に束縛されてはおらず、恵みの中にあって、自由の身となっているからです。

 15
 2017
 では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません。”
 リビングバイブル それでは、どうなのでしょう。律法を守ることによってではなく、恵みを受けることによって救われるのであれば、「罪を犯してもかまわないのだ」ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

 16
 2017
 あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。”
 リビングバイブル 知らないのですか。自分の主人は自分で選べるのです。死に至る罪を選ぶこともできれば、義(正しさ)に至る従順を選ぶこともできます。だれかに自分をささげれば、その相手があなたがたの主人となり、あなたがたはその奴隷となるのです。

 17.18
 2017
 “17 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、18罪から解放されて、義の奴隷となりました。
 リビングバイブル “17神に感謝すべきことに、あなたがたは、以前は罪の奴隷になる生き方を選んでいましたが、18今は、罪という古い主人から解放されて、義という新しい主人の奴隷になっているのです。

 19
 2017
 あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖潔に進みなさい。
 リビングバイブル このように奴隷と主人にたとえてわかりやすく言うのですが、あなたがたはかつて、あらゆる罪の奴隷でしたが、今は、あらゆる正しいこと、きよいことに仕える奴隷とならなければなりません。

 20
 2017
 あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。
 リビングバイブル あなたがたは、罪の奴隷であった時には、良いことについては無関心でした。

 21
 2017
 ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。
 リビングバイブル その結果はどうだったでしょうか。自分がしていたことを考えるだけでも、恥ずかしくなるはずです。その行き着くところは、永遠の滅びでした。

 22
 2017
 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。
 リビングバイブル しかし今は、罪の力から解放されて、神に仕える者となりました。
そして、神があなたがたに下さる恵みによってきよくされ、永遠のいのちが与えられているのです。

 23
 2017
 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
リビングバイブル 罪の支払う報酬は死です。しかし、神が下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちです。

 下線部分を信仰によって受け取れ、実体化されると、そのとき瞬時的聖化が起こるのです。
信仰が働かないときには先延ばしにしてください。
無理やり思い込んでも信仰がついて行きません。
また、悪魔悪霊の誘惑を見破り、敵である悪魔悪霊を排除することができないと、長続きしないのです。長続きしないと、この聖句は不可能だと考えかねないのです。
主は、キリスト者を信仰から信仰へと進ませてくださいます(ローマ117)。
主の御業に期待してください。
ローマ117には、福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。2017)と記されています。
初めの「信仰」のギリシア語原語による前置詞は「エク」で「~から、from」の意です。次の「信仰」ギリシア語原語による前置詞は「イース」で「~の中へ、into」の意です。
三番目の「信仰」のギリシア語原語による前置詞は「エン」で「~中で、in」の意です。

 ガラテヤ516-25には次のように記されています。いくつかの日本語訳聖書を下記します。
 聖書協会共同訳(2018版)は以下の様に記しています。
“16
私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません
17
肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのために、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。
18
霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19
19-21節は肉の行いのリスト(筆者挿入)〕肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ〔別訳「酒宴」(欄外注)〕、その他このたぐいのものです。以前も言ったように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません。
22
これに対して、霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。
24
キリスト・イエスに属する者は、肉を欲情と欲望とともに十字架につけたのです
25
私たちは、霊によって〔「霊の人」という表現については、口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳・前田訳・塚本訳・フランシスコ会訳の1コリント21531を参照(筆者挿入)〕生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。

 新改訳2017は以下のように記しています。
“16
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
17
肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。
18
御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。
22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。
24
キリスト・イエスにつく者〔キリストのもの{ガラテヤ329参照}(筆者挿入)〕は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
25
私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

 この箇所で「御霊」と訳している日本語訳聖書は、新改訳、口語訳、文語訳です。リビングバイブルは聖霊と訳しています。
ギリシア語原語は、単に「霊」です。
「御霊」ではなく「霊」と訳している日本語訳聖書は、口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳、岩波訳、フランシスコ会訳、前田訳、塚本訳です。

 1コリント617には、・・、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。(聖書協会共同訳)
岩波訳は、主に接合させられる者はしかし、〔主と〕一つの霊なのである。と訳し、
新共同訳は、・・、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。と訳しています。
ここの「主」とは、復活のキリストです。

 ガラテヤ219.20.21aの聖句に対する日本語訳聖書を三つ下記します。
 新改訳2017は次のように記しています。
“19
しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました〔十字架につけられてしまっている(岩波訳)〕。20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。21 私は神の恵みを無にはしません。

 前田訳は次のように記しています。
“19
わたしは神に生きるために律法によって律法に死にました。わたしはキリストとともに十字架につけられました。20 わたしはもはや生きているのでなく、わがうちにあるキリストが生きているのです。 今わたしが肉にあって生きているのは、神の子のまことによって生きている のです。 彼はわたしを愛してわたしのために自らをおささげでした。21 私は神の恩恵を無にしません。

 
聖書協会共同訳は次のように記しています。
“19
私は神に生きるために、律法によって律法によって死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。20 生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実〔別訳「神の子への信仰」(欄外注)〕によるものです。21 私は神の恵みを無駄にはしません。

 20節の私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実〔別訳「神の子への信仰」(欄外注)〕によるものです(聖書協会共同訳)という聖句箇所について、他の聖句から考察できる箇所の一つを下記します。

 イエス様が十字架にかかられる前の最後の晩餐での祈りです。
イエス様は次のように祈られました。
6 あなた〔御父(筆者挿入)〕が世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名〔御父ご自身がどの様な方であるかということ(筆者挿入)〕を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました〔イエスがキリストであるということを信じ通しました{ヨハネ628.29参照}(筆者挿入)〕。7 あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています8 あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。10 わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。12 彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためでした。13 わたしは今、あなたのもとに参ります。世にあってこれらのことを話しているのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためです。14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。15 わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。17 真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19 わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」(ヨハネ17章・2017

 まさしくイエス様の信仰によって、イエス様の真実によって、私たちは生かされていることを知ります。

 またヨハネ10章には次のようなイエス様の御言葉があります。
27 わたし〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません30 わたしと父とは一つです。」
誠実なる御父と御子の御力によって私たちは守られているのです。
これまでの一連の文章で述べている「信仰」「真実」「誠実」等の言葉のギリシア語は「ピスティス」です。

 ガラテヤ219.20を、聖書協会共同訳を基にして自分流に解釈訳を試みてみます。
“19
私は神に生きるために、律法によって律法に死にました。生まれながらの古い私はキリストと共に十字架につけられました。20 生きているのは、もはや新生前の古い私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、原子によって構成されている肉体の中にあって生きている新生後の私は、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の御子の真実によるものです。

 ガラテヤ524の「キリスト・イエスにつく者〔キリストのもの{ガラテヤ329参照}(筆者挿入)〕は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」という聖句や
ローマ66の「・・。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(口語訳)などの聖句の内容を信じ切ることが出来たとき、このことは自分のものとして実体化されるでしょう。
その後は、霊によって生きるのです。

 しかし、信じたと思っても、直ちに悪魔悪霊は、そうはさせまいと活動するのです。
即ち、悪魔悪霊は、罪を犯させようと誘惑しますし、悪魔悪霊の誘惑の段階において、その誘惑はあたかもその人自身の肉から出ていると思わせたりするのです。
そのようにして、「お前はまだきよめられていない」とたたみかけて、ガラテヤ524やローマ66の「ピスティス」から引きずり降ろそうとするのです。
これらの聖句を信じ続け、霊にあってor霊の人として歩み続けるためには、悪魔悪霊の様々な偽りや誘惑に対処していく必要があるのです。悪魔悪霊は多くの手口を用います。
それゆえ、霊を見分ける賜物の必要と、悪魔悪霊の手口を見破り、彼らを敗退させる霊的方法を自分のものとする必要があるのです。

それらを継続しないと、瞬時的聖化も継続しないでしょう。
また、瞬時的聖化にあずかっても、その後成熟を目指すのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
あなたから遣わされた天使は、「きよい者はますますきよくなるのです。」(黙示録2211・リビングバイブル訳)と語りました。
瞬時的聖化にあずかれる人は少ないでしょうが、いずれにしても聖き歩みの継続こそ大切であり、いつも主と共に歩んでいけば、主は必ずそのようにしてくださいますから御名を賛美します。
栄光から栄光へと主と同じ姿へと変えてくださる主の御名を崇め、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
救いと聖化を混同しないようにお願いします。
救いは、キリスト・イエス様を信じるだけ(心にお迎えするだけ)で成就します。
救われたら永遠のいのちを持っています。
聖化は、救われた後の歩みと関係するものです。

2021年11月30日 (火)

キリスト者に与えられた恵み10/聖化3

 聖化とは何なのでしょうか?

キリスト者が「聖化される」というのは、キリストと似た者とされていくこと、を言うものと思います。
 1ヨハネ31-3には次のように記されています。
“1
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3
キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします2017)とあります。

 次に、エフェソの信徒(エペソ人)への手紙4章に記されている箇所を抜粋しながら下記します。
“1
そこで、主に結ばれて囚人となっているわたし〔パウロ(筆者挿入)〕はあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み
:2
一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい愛をもって互いに忍耐し
3
平和のきずなで結ばれて、霊〔「御霊」(新改訳)、「聖霊」(口語訳)〕による一致を保つように努めなさい
4
体〔キリストの体。{1コリント1227、エペソ123参照}(筆者挿入)〕は一つ、霊〔「御霊」(口語訳・新改訳)〕は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望〔栄光の望み=栄化(筆者挿入)〕にあずかるようにと招かれているのと同じです。
5
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、〔“one Lord, one faith, one baptism”(NKJV)〕
6
すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。/
13
ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです
14
こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
15
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます
16
キリストにより、体〔キリストの体=教会(筆者挿入)〕全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分〔個々人のキリスト者(筆者挿入)〕は分に応じて働いて体〔キリストの体=教会(筆者挿入)〕を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
17
そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。19 そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
20
しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。/
22
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
23
心の底から新たにされて、〔直訳は「心の霊において新しくされ」。「心」と訳されている語のギリシア語原語は、「ヌース」で、心、知性、理解、理解力etc.の意があります。理解力の霊によって新しくされ、とも読めます。「真理の御霊によって新しくされ」ということかもしれません。(筆者挿入)〕
24
神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません
25
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。
26
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません
27
悪魔にすきを与えてはなりません
28
盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得困っている人々に分け与えるようにしなさい。
29
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい
30
神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
31
無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい
32
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい(新共同訳)とあります。

 回心したばかりのキリスト者が、一瞬の内に主なる神様が願っているような心の状態を持ち、かつ歩むということは、普通は無理なことです。
聖書を読みながら、一つ一つ、主に示されたことを悔い改め、主に変えていただき続けるという漸次的聖化の歩みをするのが一般的でしょう。

 神の御旨を歩むことが出来るように変えていただく歩み、それは聖化されていく歩みです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
この世にも、「這(は)えば立て、立てば歩めの親心」などという言葉がありますが、キリスト者に対して、あなたは、主を信じて救われたら、聖化されてキリストの姿に似た者とされていくことをお求めであることを聖書から教えられます。少しずつでもキリストに似た者とさせて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月29日 (月)

キリスト者に与えられた恵み9/聖化2

4.良心のきよめ
 ヘブライ(ヘブル)914には次のように記されています。
 新共同訳は、・・、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業(わざ)から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。と訳し、
 2017は、・・、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。と訳し、
 聖書協会共同訳は、・・、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうかと訳しています。

 ヘブル(ヘブライ)1022を諸日本語訳聖書は次のように記しています。
 口語訳は、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。と訳し、
 新共同訳は、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。と訳し、
 聖書協会共同訳は、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって〔別訳「全き信仰をもって」(欄外注)〕、真心から神に〔「神に」は補足(欄外注)〕近づこうではありませんか。と訳し、
 2017は、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。と訳しています。

 ヘブル914より、良心をきよめるのはキリストの血であることが分かります。
ヘブル1022の聖句をギリシア語聖書(TR)で見ると、2017の「血が振りかけられて」という言葉がありませんが、2017の底本にはあるのかor訳者により補足されているのか分かりませんが、ヘブル1019からの文脈やヘブル914の聖句からみて、もし「血が振りかけられて」という語が訳者の補足であったとしてもそれは妥当であり、理解しやすくなっていると思います。

 キリストの血は、良心をきよめるのです。

 良心とは、善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き。とデジタル大辞泉に記されています。

 良心をキリストの血によってきよめられた人とそうでない人の大きな違いは何でしょうか?
良心をキリストの血によってきよめられた人は、「キリストを信じないことは罪である」(ヨハネ169)と言うでしょう。
良心をキリストの血によってきよめられた人は、キリストは神でありまた人ともなられたお方、また神の御子であるお方、唯一の救い主であるお方と信じることに何の疑問もないでしょうし、またキリストのことばを正しいことばであると受け入れることができるでしょう。
 それでは、イスラム教の人はどうでしょうか?
イスラム教徒の親の中には、自分の子どもがキリストを信じたらイスラム教の良心に照らして、子どもを殺すということをする人もいます。
これはヤハウェ(主)からすると汚れた良心です。
 共産主義思想100%の人がいたとします。
その人は無神論です。神を信じるというのは邪道であり罪です。
これも汚れた良心でしょう。
 第二次大戦時、思想の問題によって捕らえられたキリスト者たちがいました。
その時の尋問の中に、「天皇とキリストとどちらが偉いか」というものがあったそうです。
「キリストです。」と答えると有罪です。
有罪宣告した人の良心は、汚れた良心です。

 聖書的倫理観を間違っているとする良心は汚れた良心です。
心にキリストの血の注ぎを受けると、良心がきよめられ、聖書に記されていることを正しいと考えることが出来るようになるのです。

 パウロは幾度もキリスト信仰の故に逮捕されました。
パウロは法廷で、「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって〔全くきよい良心をもって(新改訳第三版)〕、神の前に生きてきました。」(使徒2312017)と証言しています。
それに対して大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じたのです(使徒232)。
大祭司アナニヤは、キリストが神の子であり、救い主であるということを信じていないのです。アナニヤは、ユダヤ教の大祭司でありながら、そしてパウロと同じ聖書(当時は今でいう旧約聖書)を持っていながら、キリストの血の注ぎを受けていないために、聖書を正しく読むことが出来ず、キリストが神の子であり、救い主である、と信じることの出来ない穢れた良心を持っていたのです。その点において、大祭司アナニヤは、善を悪としている汚れた良心の持ち主であることを明らかにしています。

 唯一の真の神であり三一の神であるお方が善とすることを善とすることができるためにはキリストの血の注ぎを受けて良心をきよめて頂く必要があるのです。
 良心がキリストの血によってきよめられると、まことの神の御目から見て正しい善悪の判断が出来るようになるのです。そして、神が「善」とすることを正しいこととし、神が「悪」とすることを悪いことと判断することが出来るようになるのです。
 ヒューマニズム的に生きている人は、聖書の中には善いことも書いてあるけれども、受け入れられないことも書いてあると言うでしょう。それはその人の良心がキリストの血によってきよめられていないからです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
キリストの血によって良心がきよめられないと、聖書を読んでも、あなたの御命令に従って歩むということができないことは当然のことであることを教えてくださっておられますから感謝します。
パウロの様に「私は今日まで、あくまでもきよい良心にしたがって、神の前に生きてきました。」と言える可能性を与えてくださっておられますことを感謝します。
パウロのように言えるためには、自分自身を聖別し、毎瞬毎瞬聖霊によって歩む必要を覚えます。
常に聖霊に満たされて歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

明日に続く

2021年11月28日 (日)

キリスト者に与えられた恵み8/聖化1

 聖化の定義は諸説ありますが、聖化については、聖別、聖、聖化の過程、・・、等について分けながら見ていくと分かり易いのではないかと思います。
表題にあるように、キリスト者に与えられた恵み、という観点で述べていきます。

1.聖別
 1コリント11.2には、
“1
神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
2
コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。(新共同訳)

 新共同訳が、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と訳した箇所を、
 2017は、「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ」と訳し、
 口語訳は、「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ」と訳しています。

 コリント教会は、様々な種類の罪の故に、パウロからきびしい指導を受けた教会です。
パウロは、その手紙の冒頭で、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と記しているのです。
コリント教会の人々の中には、キリスト・イエスを信じた後でも、キリスト・イエスを信じていない人たちよりも行いが悪かった人たちがいたのです。
パウロは、その人たちに対しても、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と記しているのです。
この人達は、この時点で、行いがきよくあったというのではなく、神のものとして聖別されている、ということをパウロは述べているのです。

 神様は如何なる方法で私たちを聖別したのでしょうか?
ヘブライ(ヘブル)1010.14には次のように記されています。
“10
・・、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。/14 実に、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者としてくださったのです。(聖書協会共同訳)

 神様は、神である御子が、人間の肉体を纏い、キリストの肉体において罪の贖いを成し遂げ、キリストを信じた者(キリストを心にお迎えした者)を神のものへと聖別してくださったのです。これは回心のときに神様がなさってくださったことです。それ故、キリスト様を心にお迎えした者(キリストを信じた者)は、神へと聖別されているのです。

 ヘブル1010の聖句によって、心の思い、意思、感情と行いとが、瞬時的に全く聖とされるというのは間違った捕らえ方ではないかと思います。この聖句は、キリスト者の立場について述べているものであると私は考えます。

2.神は聖です。
 「神は聖」という項目は、聖化の中に入るわけではありませんが、「神は聖である」という概念が分からないと聖化もわからないのではないかと思い、ここに入れることにします。
 聖書辞典は、
「聖」を表す〈ヘ〉コーデシュの原意は「分離」であり、「聖」とは,ある二者の間に分離がある状態を指している。聖が神の属性として用いられる時、神がすべての被造物から隔絶していること、悪や罪からも全く分離していることを指す。聖はまた神の栄光(レビ10:3)や正義とさばき(詩篇99:3)と関係づけて用いられている。(抜粋)と述べています。

 レビ103に、ヤハウェ(主)ご自身が、「私は聖なるもの」と出て来ますが、更に理解しやすいためにレビ101-3を下記します。
“1
さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前に献げた。
2
すると火が主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の前で死んだ。
3
モーセはアロンに言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がお告げになったことはこうだ。『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。』」アロンは黙っていた。2017)とあります。
 3節の『 』内を聖書協会共同訳は、『私に近づく者によって、私が聖なる者であることを示し、民全体の前に栄光を現す。』と訳しています。

 詩篇993は次のように記されています。
 2017は、大いなる恐れ多い御名をほめたたえよ。主は聖なる方2017)と訳し、
 新共同訳は、御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。と訳し、
 口語訳は、彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名をほめたたえるであろう。主は聖でいらせられると訳しています。

3.キリストがキリスト者の「聖」となってくださったということ
 1コリント130には次のように記されています。
 新改訳第三版は、・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。と訳し、
 口語訳は、あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。と訳し、
 新共同訳は、神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。と訳し、
 新改訳2017は、・・、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。と訳し、
 聖書協会共同訳は、あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。と訳しています。

 驚くべきことに、というか大いなる感謝というべきか、この聖句は、御父が、キリスト者をキリストの内に置いた、ということです。それ故、御父はキリストを通してキリスト者を見てくださるということです。
別の言い方をすると、キリストの義、キリストの聖が、キリスト者に転嫁された、ということになります。
キリスト者は、キリスト者の実際の心のありようとか行いには関係なく、キリストの内に置かれている故に聖であると見なされているのです。

 今日の箇所は、神が聖であられ、絶対的主権者であられるヤハウェ(主)というお名前の唯一の神が、キリスト者を聖別した、ということを中心に述べました。
明日に続く

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
キリスト・イエス様を信じさせて頂けて感謝します。
キリスト・イエス様を信じた時に、あなたのものとして聖別してくださり、キリストの内に置いて下さり、キリストの聖を転嫁してくださいましたことを感謝します。
あなたの御厚意にふさわしい歩みをしていくことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<転嫁>について
転嫁というと、この世で多く用いられるのは、「責任の転嫁」という言葉で、「自分の罪・責任などを他になすりつけること」ですが、今日の箇所は、私たちにとって素晴らしく良いものである転嫁です。
 聖書辞典は次のように述べています。
〔転嫁とは、(筆者挿入)〕何かをある者に「帰する」ことや他のものと「見なす」こと(レビ253117:4)を意味するものと考えられるが、最も重要な概念はキリストの義を人間のものと見なす神の行為に関する表現としてである。これは原罪、贖い、義認の3つの聖書の教理の背後にあるものであり、第1はアダムの罪の子孫への転嫁であり、創3章とそれに続く人類の堕落の歴史に示されている。次は信じる者の罪がキリストに転嫁されることで、旧約のいけにえの制度は新約のキリストにおける贖いの予型であった(イザヤ536.11)。人間は本来罪人であり、義とはなり得ない者であるが、神の義がキリストの十字架の贖いにより人間に転嫁されて、罪人であるが、義と「見なされる」のである。さらに信じる者に対するキリストの義の転嫁があり、義認は行いによらず価なしに与えられる(ローマ3245:15、ガラテヤ216)。この概念はプロテスタント教会の特質であって、ローマ・カトリック教会の言う義の注入(義が一つの実体としてとらえられ、それが神から人間へと注入されることによって人間が義となるという説)による成義(義化)とは異なる。とあります。
〔義が注入されたら、正しい思い、正しい行動を取ることができるでしょう。しかし、無意識のうちに正しい行動をとることができるようにして頂けるのは、時間軸でいうと、黙示録198まで待つ必要があると私は考えています。(筆者挿入)〕

2021年11月27日 (土)

キリスト者に与えられた恵み7/永遠のいのち

 永遠のいのちに関するいくつかの聖句を列挙します。
「永遠」のギリシア語原語は「アイオーニオス」、「いのち」のギリシア語原語は「ゾーエー」です。

1.ヨハネ3:15.16
 “15 それは、信じる者〔彼を信じる者(口語訳)〕がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”(2017)

 15節の「人の子にあって」の「あって」のギリシア語原語は「イース」で“into, in”の意です。15.16節の「彼(御子)を信じる」の原語を直訳すると「彼(御子)の中へと信じる」となります。御子の中に入り込むイメージです。知的に「私は、あなたが神の御子であることに同意します。」というのとは違うのです。

2.ヨハネ3:36
 “御子を信じる者は永遠のいのちを持っている”(2017)

 「御子を信じる」と訳されている語のギリシア語原語の元々の意味は、ヨハネ3:15.16と同じです。

 信じるということについて、ヨハネ1:12は、「受け入れる」ということと同じであることを教えてくれています。それはまた、イエス様ご自身が、ヨハネ6:54に記されている御言葉で明らかにしていることです。

3.ヨハネ5:24
 “まことに、まことに〔「まことに」のギリシア語原語は「アーメン」(筆者挿入)〕、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。”(2017)

4.ヨハネ6:39.40
 “わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」”(2017)

5.ヨハネ6:54
 “わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。”(2017)

6.ヨハネ10:27-30
 “27わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。30 わたしと父とは一つです。」”(2017) 

7.ヨハネ17:2.3
 “あなた〔御父(筆者挿入)〕は子〔御子イエス・キリスト(筆者挿入)〕に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。”(2017)

 「イエス・キリストを知ることです」の「知る」という語のギリシア語原語は「ギノースコー」で「(知的に)知る、理解する」の意もありますが、聖書で「知る」と表現するときには、「(男女の関係の中で)知る、すなわち肉体関係を持つ」、の意にも使われています。」
キリストとキリスト者の関係は霊的なものですから、1コリント6:17の「・・主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。」(聖書協会共同訳)ということを指しているのではないかと思います。

8.1ヨハネ5:10-13、20
 “10 神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。11 その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。13 神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。/20 また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。”(2017)

 11節に、永遠のいのちは「御子の内にある」と記されています。三一の神は永遠のお方です。ですから、御父のみならず御子の内にも永遠のいのちがあるのです。その御子の霊と私たちの新生させて頂いた霊が「一つの霊となる」(1コリント6:17)のですから、キリスト者の霊は永遠のいのちをキリストにあって、また神から生まれた即ち新生した霊(ヨハネ3:3.6、ヤコブ1:18、1ペテロ1:3.23、ヨハネ6:63)として持っているのだろうと思います。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
イエス様を知ることを得させてくださり、永遠のいのちを与えてくださいましたことを感謝します。
今は霊において、主と一つ霊とされ、霊において永遠のいのちを与えられ、主の中で安息していますが、やがてキリストの空中再臨の折には、永遠に滅びることなく栄光に輝く霊の体をも与えてくださいますからありがとうございます。
限りないあなたの御愛、御恵みの故にあなたの御名をほめたたえ、感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月26日 (金)

キリスト者に与えられた恵み6/三一の神とキリスト者の霊の関係を中心として

 三一の神とキリスト者の霊の関係を中心としていくつかの聖句を列挙します。

 A.キリスト者はキリストの内に(in)在るといういくつかの聖句
1.ヨハネ14:20
 “その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。”(2017)
“At that day you will know that I am in My Father, and you in Me, and I in you.”(NKJV)
2.ローマ6:11
 “同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。”(2017)
“Likewise you also, reckon yourselves to be dead indeed to sin, but alive to God in Christ Jesus our Lord.”
3.ローマ8:1
 “こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。”(2017)
“There is therefore now no condemnation to those who are in Christ Jesus,”(NKJV)
4.1コリント1:30
“しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。”(2017)
“But of Him you are in Christ Jesus, who became for us wisdom from God-and righteousness and sanctification and redemption-”(NKJV)
5.2コリント5:17
 “ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”(2017)
“Therefore, if anyone is in Christ, he is a new creation; old things have passed away; behold, all things have become new.”(NKJV)
6.エペソ1:4
 “すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。”(2017)〔この方とはキリスト(筆者挿入)〕
“just as He chose us in Him before the foundation of the world, that we should be holy and without blame before Him in love,”(NKJV)
7.コロサイ2:10
 “あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。”(2017)
 “and you are complete in Him, who is the head of all principality and power.”(NKJV)

 B.キリスト、或いは聖霊、或いは父なる神がキリスト者の内に(in)おられるといういくつかの聖句
1.ヨハネ14:20
 “その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。”(2017)
“At that day you will know that I am in My Father, and you in Me, and I in you.”(NKJV)
2.ローマ8:10
 “もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。”(口語訳)
“But if Christ is in you, your body is dead because of sin, yet your spirit is alive because of righteousness.”(NIV)
3.ガラテヤ2:20
 “もはや私〔生まれながらの私(筆者挿入)〕が生きているのではなく、キリストが私の〔新生した私の霊の(筆者挿入)〕うちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのち〔「肉体の中で生きている命」すなわち霊(筆者挿入)〕は、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰〔直訳は「御子の信仰」(筆者挿入)〕によるのです。”(2017)〔この箇所の筆者挿入の解釈は筆者のものですのでそのまま信じずにご勘案ください(筆者挿入)〕
“I have been crucified with Christ; it is no longer I who live, but Christ lives in me; and the life which I now live in the flesh I live by faith in the Son of God, who loved me and gave Himself for me.”(NKJV)
4.コロサイ1:27
 “この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。”(2017)
“To them God willed to make known what are the riches of the glory of this mystery among the Gentiles: which is Christ in you, the hope of glory.”(NKJV)
5.1コリント13:5
 “あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。”(2017)
“Examine yourselves as to whether you are in the faith. Test yourselves. Do you not know yourselves, that Jesus Christ is in you?-unless indeed you are disqualified.”(NKJV)
6.ガラテヤ4:6
 “このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。”(口語訳)
“Because you are sons, God sent the Spirit of his Son into our hearts, the Spirit who calls out, <"Abba>,”(NIV)
7.1ヨハネ4:13 神と人との相互内住
 “神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。”(新共同訳)
“By this we know that we abide in Him, and He in us, because He has given us of His Spirit.”(NKJV)
8.ヨハネ14:23
 “イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたち〔御父と御子(筆者挿入)〕はその人のところに来て、その人とともに住みます。”(2017)
“Jesus answered and said to him, "If anyone loves Me, he will keep My word; and My Father will love him, and We will come to him and make Our home with him.”(NKJV)
9.1コリント6:19
 “知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。”(新共同訳)
“Or do you not know that your body is the temple of the Holy Spirit who is in you, whom you have from God, and you are not your own?”(NKJV)
10.1コリント3:16
 “あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。”(新共同訳)
“Do you not know that you are the temple of God and that the Spirit of God dwells in you?”(NKJV)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちキリスト者は主の内に置かれ、主の霊が私たちの内に住んでくださっておられますことを感謝します。
1コリント6:19.20に、「・・。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(新共同訳)と記されているように、神の栄光を現すような歩みをすることができますよう助けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月25日 (木)

キリスト者に与えられた恵み5/キリストとの結合

 キリストとキリスト者の結合について

 三一の神とキリスト者の結合的関わりについて、聖書は、色々な表現で語っておられます。
ぶどうの木と枝、キリストの体とその肢体、土台と建物、頭と体、夫と妻等です。

 ここでは夫と妻の関係を取り上げます。
キリストとキリスト者の結合とは、霊におけるものです。
 1コリント6:17には、
“主と交わる者は、主と一つの霊になるのです。”(2017)と記されています。
新共同訳は、“主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。”と訳しています。

 結びつきは、霊におけるものであり、魂において一つとか、肉体において一つなどとは書かれていません。魂がきよめられていかないと、霊において一つということがなかなか理解できません。
キリストの救いにあずかった時に、魂は救われます(1ペテロ1:9)が、救われた当初から霊の人になるわけではなく、救われた初期の頃のたましいは、私の体験上では肉の支配下にあることの方が圧倒的に多いのです。

 少し脱線しますが 
新共同訳の表現に基づく、➀霊の人、➁肉の人(新生していても魂が肉に支配されている人)、③ただの人(新生していない人、生まれながらの人間)について記されている箇所を下記します。
 1コリント2:6-3:3には次のように記されています。
“2:6 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。
7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。
8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9 しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。 2:10 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。
〔新共同訳の“霊”という表記について:新共同訳の凡例の箇所に、底本の字義通り『霊』と訳した箇所のうち、『聖霊』あるいは『神の霊』『主の霊』が意味されている場合には、“霊”とした、という意が述べられています。(筆者挿入)〕
11 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。
12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
13 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。
14 自然の人〔新生していない人(筆者挿入)〕は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。
15 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
16 「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
3:1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。”
〔肉の人とは、魂が救われたとはいえ、その性質の変化がわずかで生まれながらの性向を有している人のことであると筆者は考えています。参考箇所ガラテヤ5:19-23(筆者挿入)〕

 本論に戻ります。
次に結婚について、主は次のように語られました。
“・・・。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。”(マタイ19:4.5・2017)と記されています。
これは、体についてのことですが、キリストとキリスト者とは、霊において一つになる、というものです。

 パウロは、夫と妻のありようについて語っている中で、キリストとキリスト者(新生した者)の総体(エクレシア、教会)について次のように述べています。
 “21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。
24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、
27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。
28 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
29 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
30 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
31 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」
32 この神秘〔「奥義」(新改訳、口語訳)〕は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。”(エペソ5章・新共同訳)

 結婚の奥義とは、キリストとキリスト者の総体(新生した者たちの集まりであるエクレシア)のことを指し示している、というのです。
それが見える形で実現するときのことが、黙示録19章に次のように記されています。
“6 また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主〔キリスト・イエス(筆者挿入)〕、全能者が王となられた。
7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊〔御子キリスト(筆者挿入)〕の婚礼の時が来て、花嫁〔エクレシア(筆者挿入)〕は用意ができたのだから。
8 花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
9 御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。”(2017)とあります。

 この情景は、終わりのラッパ(1コリント15:52)即ち神のラッパ(1テサロニケ4:16)が吹かれた時に霊の体を与えられたキリスト者が天に引き上げられた後、数年たってからの出来事です。

 神のラッパ(終わりのラッパ)が吹かれる以前、特に、まだ地上に置かれている(遣わされている)キリスト者にとってのキリストとの結びつきの関係は、霊におけるものです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇め賛美します。
あなたの子どもとしてふさわしく歩むことができますようお整え下さい。
現在は霊においてですが、キリスト様と結ばれていることを感謝します。
キリスト・イエス様を愛し、お従いし続ける者としてお整え下さい。
やがて霊の体を与えられ、旧約の聖徒たちや天使たちに祝福されながら花婿キリスト様と婚礼の儀を持たせて頂けますことを感謝します。
この驚くべき恵みに何と感謝したらよいのでしょう。
地上に遣わされている間、できる限り、主を愛して主に従い続けて歩むことができますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月24日 (水)

キリスト者に与えられた恵み4/神の子ども3

 「神の子ども」という表現を時間軸上で考えてみます。

1.天地創造の前から、神である主は、キリスト者を神の子どもとすることにしていました。
エペソ14.5には、
“4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。(新共同訳)と記されています。
5
節には、「神の子にする」(フュイオセシア)とあります。
人がどうのこうのではなく、神である主のご計画です。
人の側からすると、神から与えられた恵みです。神からの一方的なgiftです。

2.個人の経験としては、キリスト・イエス様を信じた時に、新生{神の霊からの誕生(ヨハネ33.61ペテロ13、ヤコブ118)}させて頂けたことによって、神から霊の誕生をしたのです。
そしてそれは、キリスト・イエス様を信じた時(心に受け入れたとき)に経験したのです(ガラテヤ326)。

 上記の聖句を下記します。 
 ヨハネ33.6 “3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。(新共同訳) 
 ➁1ペテロ13 “・・・。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017) 
 ③ヤコブ118 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさる為です。(新共同訳)
 ④ガラテヤ326 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。(口語訳)
〔「あなたがたは皆、キリストイエスの中にある信仰を通して、神の子なのです。」(筆者直訳)。そして、ヨハネ629には、「イエス答へて言ひたまふ『神の業はその遣し給へる者を信ずる是なり』」(文語訳)とあります。文語訳の文体を基に直訳すると、「イエスは答えて言われた。『神の行為とは、神が遣わした者(イエス・キリスト)の中へと(ギリシア語原語は、エイス)あなたが信じることです。』」(筆者直訳)〕

 普通、人は幼少の頃から、親が「良し」とすることを行うことによって、親に認めてもらおうとするのではないかと思います。親がそのように育てるからなのか、生まれながらのさがなのかは分かりませんが。
 ところが、キリスト・イエスによる救いは、神の業なのです。
という私も、自分が信じたのだ、と思ったものです。
ヨハネ629の聖句のみならず、
エペソ28-10には、“:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物gift)です。9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。10 実に、私たちは神の作品であって、・・・。2017)と記されています。

 恵みの上に恵みを与えられた者(ヨハネ116)、それがキリスト者です。
それ故、キリスト者は自然と主を賛美するのです(エペソ16.12.14、新共同訳の詩篇10219b)。そして主を賛美することは喜びなのです。
行いによって救われようとするのはサタンの罠(入れ知恵)ではないかとさえ私は思います。
コロサイ28に、“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。”(2017)と記されていますから。

 注意:神の子どもが良い行いをすることは神のみ旨に叶うことです(マタイ5:48)。神の子どもでない人でもヒューマニズム的に良き行いをすることは出来ますが、神の子どもでない人が、神のみ旨に叶う良い行いをすることは出来ません(ローマ14:17、詩篇29:1、イザヤ42:8、etc.)。

3.「神の子ども」としての完成
 霊は新生によって神から誕生しましたが、キリスト者の体が、肉の体から霊の体に変えられる時は、キリストの空中再臨の時です。
関連聖句を列挙します。
 ➀1コリント15
“42
死人の復活も、また同様である。朽ちるもの〔肉の体(筆者挿入)〕でまかれ、朽ちないもの〔霊の体(筆者挿入)〕によみがえり、
43
卑しいもの〔肉の体(筆者挿入)〕でまかれ、栄光あるもの〔霊の体(筆者挿入)〕によみがえり、弱いもの〔肉の体(筆者挿入)〕でまかれ、強いもの〔霊の体(筆者挿入)〕によみがえり、
44
肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
45
聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダム〔キリスト・イエス(筆者挿入)〕は命を与える霊となった。
46
最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。
47
第一の人〔アダム(筆者挿入)〕は地から出て土に属し、第二の人〔キリスト・イエス(筆者挿入)〕は天から来る。
48
この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。
49
すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
50
兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは〔肉の体(筆者挿入)〕神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
51
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる1テサロニケ416.17参照)。
52
というのは、ラッパ〔「神のラッパ」(1テサロニケ416)〕が響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
53
なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。(口語訳)
 ➁1テサロニケ416.17
“16
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、
17
それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。2017
 ③ピリピ320.21
“20
しかし、私たちの国籍〔「本国」(新共同訳)〕は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
21
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだ〔肉の体(筆者挿入)〕を、ご自分の栄光に輝くからだ〔霊の体(筆者挿入)〕と同じ姿に変えてくださいます。2017

ハレルヤ!

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇め、感謝し、賛美します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名によって、アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。」(ヘブル1315・新共同訳)
「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ31.2・口語訳)

2021年11月23日 (火)

キリスト者に与えられた恵み4/神の子ども2

1ヨハネ2:28-3:10及び1ヨハネ5:1.2の昨日のブログを再掲します。

 1ヨハネ2:28-3:10
“2:28 さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。
29 あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。
4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。
5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
6 キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
7 幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。
8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。
9 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。
10 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。”(2017)
 1.2.10節の「神の子ども」の「子ども」のギリシア語原語は、「テクノン」です。
8節の「神の御子」の「子」は「フュイオス」です。

9.1ヨハネ5:1-3
“1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。
2 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。
3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。”(2017)
“1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。”(新共同訳)
 2節の「神の子ども」の「子ども」と訳されている語のギリシア語原語は、「テクノン」です。
 ところが、1節には、「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。」(2017)と記されています。

 次に昨日upしたガラテヤ4:4-7を再掲します。
“4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。
5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさる〔「子としての身分を授ける」(聖書協会共同訳)〕ためでした。
6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。”(新共同訳)
 5節の「子」に関連したギリシア語原語は「ヒュイオセシア」という語で、「子(実子)の立場に置く」ということですから、養子ということでしょう。6.7節の「子」は「フュイオス」です。 
聖書協会共同訳は5節の「子としての身分」と訳した箇所の「子」の欄外注に「直訳(養子)」と記しています。
 6節の「御子」の「子」は「フュイオス」です。
6節の「あなたがたが子であることは」の「子」は、「フュイオス」です。
「フュイオス」は御子に使われ、実子に使われているように思えます。キリストの霊はキリスト者の霊と結ばれました(1コリント6:17)。キリスト者の霊についてこの箇所では「子」(フュイオス)という単語を使っているのではないかと私は推測します。「霊から生まれたものは霊です」から(ヨハネ3:6・口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳)。

 私の見解ですが、「子」について、簡単に言うと、
➀キリスト者の霊は、神の霊から生まれたので、霊については「フュイオス」です。
➁キリスト者の体は、肉の両親から生まれたもので、肉です。
③キリスト者の魂は、救われた(1ペテロ1:9)とはいえ、神の霊から生まれたものではありません。
それ故、キリスト者全体としては、「テクノン」(養子)ということになるのではないかと思います。
霊において、主と交わっているときには、まさに実子そのものです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
実子であろうと養子であろうと、あなたとの聖なる交わりを与えられておりますことを感謝します。
日々、あなたとの間に壁を作ってしまうことなく、いつも豊かな交わりを持ち続けて行くことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月22日 (月)

キリスト者に与えられた恵み4/神の子ども1

 「神の子ども」という語句の出てくる聖書箇所を列記します。

1.マタイ5:9 
“平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。”
「神の子ども」の「子ども」のギリシア語原語は「フュイオス」で、息子、子ども、の意です。

2.ヨハネ1:12
 “しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。”
「神の子ども」の「子ども」のギリシア語原語は「テクノン」で、Strong辞書によると、“a child (as produced): - child, daughter, son.”と記され、子ども、娘、息子の意がありますが、a child (as produced)とありますから、養子というような場合に用いられるのでしょう。マタイ5:9の「フュイオス」は実子でしょう。

3.ローマ8:14-21
 “14 神の御霊〔神の霊(聖書協会共同訳)に導かれる人はみな、神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊〔子たる身分を授ける霊(口語訳)〕を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
16 御霊ご自身が〔この霊こそは(新共同訳)〕、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。
19 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
20 被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。”
 16節の「子ども」のギリシア語原語は、「テクノン」、
 19節の「子ども」のギリシア語原語は、「フュイオス」、
 21節の「子ども」のギリシア語原語は、「テクノン」となっています。

4. ローマ9:8
“・・・、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、・・。”
「肉の子ども」の「子ども」のギリシア語原語は、「テクノン」となっています。
この箇所の「肉の子ども」の「子」の「テクノン」の意は、“child (as produced)”とありますから、この箇所では、両親から生み出されたor生成された「子」のことを言っているのでしょう。

5.ガラテヤ3:26
“あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。”
この箇所の「子ども」のギリシア語原語は、「フュイオス」となっています。

6.ガラテヤ4:4-7
“4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。
5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。
7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。”(新共同訳)
 5節の「子」に関連したギリシア語原語は「ヒュイオセシア」という語で、「子(実子)の立場に置く」ということですから、養子ということでしょう。6.7節の「子」は「フュイオス」です。
 6節の「御子」の「子」は「フュイオス」です。

7.フィリピ(ピリピ)2:12-16
“12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
16 命の言葉をしっかり保つでしょう。・・・。”(新共同訳)
 15節の「神の子」の「子」のギリシア語原語は「テクノン」です。

8.1ヨハネ2:28-3:10
“2:28 さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。
29 あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。
4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。
5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
6 キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
7 幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。
8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。
9 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。
10 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。”(2017)
 1.2.10節の「神の子ども」の「子ども」のギリシア語原語は、「テクノン」です。
8節の「神の御子」の「子」は「フュイオス」です。

9.1ヨハネ5:1-3
“1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。
2 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。
3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。”(2017)
“1 イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。
2 このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。
3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。”(新共同訳)
 2節の「神の子ども」の「子ども」と訳されている語のギリシア語原語は、「テクノン」です。
 ところが、1節には、「イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。」(2017)と記されています。

 考察は明日に譲ります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちキリスト者を神の子どもとしてくださいましたことを感謝します。
それ故、私たちは、あなたを、「至高の神様」とか、「イエス・キリストの父なる神様」とか呼ばないで、「天のお父様」と呼ぶことが出来るようにしてくださいましたことを感謝します。
天地万物をつくられた神様、自存にして永遠の神様を「天のお父様」と呼べますことを重ねて感謝します。
あなたの子どもとしてふさわしく歩むことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月21日 (日)

キリスト者に与えられた恵み3/新生に関連して「霊・魂」について2

 人の霊と魂と肉体について、1テサロニケ5:23は、“どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。”(新共同訳)と述べています。
この聖句の、霊・魂・体のギリシア語原語の
、「霊」は「プニューマ」、「魂」は「プシュケー」、「体」は「ソーマ」です。 

 一口に「霊」と言っても、神は霊的存在者ですし、天使も霊的存在者ですし、人にも霊があります。
➀神に関連した聖句
 ヨハネ4:24には、主イエス様が、「神は霊である」(新共同訳)と語られた御言葉が記されています。
➁御使い(天使)は、霊です。
 ヘブル1:14に、「御使い〔天使たち(新共同訳)〕はみな、奉仕する霊であって」(2017)と記されています。
 神は、永遠に自存する「霊」ですが、天使たちの霊はそうではありません。天使たちはつくられた存在です。
 コロサイ1:16を、
 2017は、“・・・天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。”と訳し、
 リビングバイブルは、“事実、キリストはすべてのものの創造者なのです。天にあるものも地にあるものも、目に見えるものも見えないものも、霊の世界の王座も主権も支配も権威もすべて、この方がご自身の目的と栄光のために造られたのです。”と意訳しています。
 天使(御使い)は、上記の「見えないもの」の内に入るでしょう。
 三一の神以外のものは、すべて被造物ですから、御使いは、霊であるとはいえ被造物なのです。
③冒頭に1テサロニケ5:23の聖句を書きましたが、キリスト者は、霊・魂・体からできています。
 キリスト者ではない人はどのようであるのでしょうか。
 キリスト者でなくても生きていれば「霊」を持っています。それは体を生かす霊です(創世記6:3、ルカ8:55)。

 霊については、肉眼によって見ることもできず、触覚によって知る
こともできず、科学的手法によっても知ることの出来ないものです。ただ聖書だけが頼りです。聖書だけが頼りなのですが、聖書は霊について体系的に記しているわけではありません。
それ故、私たちは、十分には知り得ないのです。 

 一般的な人の霊についての聖書の記述

ⓐ創世記には、「人の霊」という表現が出てきません。
民数記16:22に初めて、モーセとアロンの祈りとして「神よ、すべての肉なるものの霊をつかさどる神よ。・・・」と出てきます。

「人の霊」という記述に関して新改訳2017では、2歴代誌:21:16、箴言16:2、18:14、ゼカリヤ12:1に出てきます。
 2歴代誌21:16には、“主は、クシュ人の近くにいたペリシテ人とアラビア人の霊を奮い立たせて、ヨラムに敵対させたので、”(2017)と記されています。
 箴言16:2には、“人には自分の行いがみな純粋に見える。しかし、主は人の霊の値打ちを量られる。”(2017)と記されています。
 箴言18:14には、“人の霊は病苦も忍ぶ。しかし、打ちひしがれた霊はだれが担えるだろう。”(2017)と記されています。
 ゼカリヤ12:1には、“宣告。イスラエルについての主のことば。天を張り、地の基を定め、人の霊をそのうちに造られた方、主の告げられたことば。”(2017)と記されています。
 イザヤ57:16には、“わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。わたしから出た霊が衰え果てるからだ。わたしが造ったいのちの息が。”(2017)と記されています。

ⓑ「いのちの息」と「霊」について{息:ネシャマー、霊:ルーアハ}の聖句に関連して
 ・いのちの息は霊なのか否か、いのちの息は神の霊なのか人の霊なのか?
 ・創世記2:7によると、いのちの息は、人を生きた者とします。
 ・黙示録11章に、大患難時代に立てられた二人のあかし人の話が出てきます。この二人は殺された後、いのちの息が神から出て二人に入ると、二人は生き返りました(黙示録11:11)。
 ・ルカ8:55には、ヤイロの娘(約12歳)が死から生き返った時の情景をルカは、「すると少女のが戻って、少女はただちに起き上がった。」と記しています。

 上記の聖句からは、「いのちの息」と「人の霊」は同じものと考えられるようにも思います。

 ・ヨブ27:3には、「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり」とありますが、息(ネシャマー)と霊(ルーアハ)を同じものとして扱っても良いのでしょうか?
 創世記6:3に記されている、“そこで、主は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」”(2017)という聖句を参考にすると、ルカ8:55の「少女の霊」というのは、主なる神様が、少女を生かすために与えている霊を少女に戻した、とも取れます。この霊は、イザヤ57:16を基にして考えると、「主なる神様が造ったいのちの息」であり、それは「主のもの」である、ということになるのでしょう。

 ・ヨハネ20:22には、「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊(ハギオス・プニューマ)を受けなさい。‥』」。これは聖霊であって、人の霊ではありません。

3.人の霊の機能
 ⓐ霊がなければ人は死んでいる(ヤコブ2:26)。
∴生きている人は、キリスト者でなくても霊を持っています。そのことはゼカリヤ12:1、ルカ8:55からも明らかです。

 ⓑエペソ2:1には、「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、」という表現で、死んでいるというのは、体、魂、でないことは確かです。とすると「霊」ということになります。

 ⓐとⓑは一見矛盾しているように思えますが、矛盾なく捉えるためには、霊の機能を二つに分けて、人の体を生かす霊と、神様と交わりを持つことのできる機能としての霊、というように理解したらよいのでしょうか?
ⓑの場合は、神様との交わりの機能が死んでいる即ち断絶している、と捉えたらよいのでしょうか?

 アダムが罪を犯したときに霊は死んだ、という人がいます。
肉体の命を生かすために主なる神様が与えている霊(創世記6:3)が死んだら、或いは取り上げられたら、人の肉体は死ぬのです。ですから、アダムが堕罪した時に、霊は死んだ、と言っている人の霊は、肉体を生かす霊のことではないことが分かります。
その場合の霊とは、主なる神様との交わりの機能のことを指しているのではないかと思います。霊が死んだというのは、主なる神様との交わりの断絶です。
エペソ2:1の、“さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。”(新共同訳)という記述は、そのことを指しているのだと思います。

 体と体を生かしている霊の断絶、それを、いわゆる「死」と言っています。
ヤコブ2:26には、“からだが霊を欠いては死んでいる”(2017)と記されています。
同じことは、ルカ8:55にも記されていました。

 次に
魂と霊の関係を考えます。
ラケルの場合、魂が離れ去って死にました。
創世記35章には次のように記されています。
“18 彼女が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。19 こうしてラケルは死んだ。彼女はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道で葬られた。”(2017)とあります。
 霊が離れれば死にます(ヤコブ2:26、ルカ8:55)。
 上記の聖書箇所と創世記35:18.19から考えられることは、霊は魂に包含されるということでしょうか?
一般的にはそのようなのではないかと思います。
しかし、魂がきよめられたキリスト者の場合、キリスト者の霊の内におられる聖霊は、魂も通過して、或いは魂も用いて宣教の業を推進していくものと思います。
イエス様は、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:38・2017)と語られ、ヨハネはそれに「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。」(ヨハネ7:39a・2017)と解説を加えました。

 キリスト者の霊の誕生については、昨日のブログに記してあります。
ヤコブ1:18には、“御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。”(新共同訳)と記されています。
イエス様の御言葉は霊であり命です。
ヨハネ6:63には、「命を与えるのは”霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(新共同訳)と記されています。〔新共同訳が、”霊”と表記するときは、「聖霊」or「神の霊」or「主の霊」を表しています。〕
ヨハネ3:3.6には、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。/ 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(新共同訳)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
至高のお方であるまことの神様を、「天のお父様」と呼べるようにしてくださいましたことを感謝します。
万物の根源であるお方、万物を創造なさったお方、万物の上に君臨なさっているお方、永遠であるお方、自存であるお方、を「天のお父様」と呼べる者としてくださっておられますことを重ねて感謝します。
御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月20日 (土)

キリスト者に与えられた恵み3/新生に関連して「霊・魂」について1

1.「たましい(魂)」について
 ⓐ新改訳2017では創世記35:18で初めて「魂」の語が出てきます。
 創世記35:18は、“彼女〔ラケル(筆者挿入)〕が死に臨み、たましいが離れ去ろうとしたとき、その子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。”(2017)と記しています。

  この章節以降、「たましい」の語は、創世記49:6、出エジプト30:12.15.16、・・・・と続いて現れます。

 ⓑ「魂はいつ造られたのでしょうか」
 創世記2:7を、
 KJV訳は、“And the LORD God formed man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living soul.”
と訳しています。
soulと訳された語のヘブライ語原語は、「ネフェシュ」です。
living soul”は、「生きた魂」と訳せます。man以下の訳は、「人は生きた魂となった」と訳せると思います。
 リビングバイブルは、“やがて主なる神が人を造る時がきました。まず、地のちりで体を造り上げ、それにいのちの息を吹き込んだのです。そこで人は、生きた人格をもつ者となりました”と訳しています。
 ギリシア語聖書は、「プシュケー」即ち「魂」と訳しています。

魂の機能には、知・情・意があると考えられています。
 新改訳2017は、“神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった”と訳しています。 
下線部分について、新改訳以外にも新共同訳、口語訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳は、同じ意に訳しています。
 面白いのは文語訳で、“人即ち生靈となりぬ”と表記し、「生靈」を「いきりょう」とルビをふるのではなく「いけるもの」とルビをふって、人の本体が「生ける霊」であることを表しているようです。 

 「ネフェシュ」について、Strong辞書を参照すると、「ネフェシュ」は、「呼吸する被造物、動物、体、いのち、人、魂、霊等々に訳されているので、訳し方ではどちらでもよいのでしょうが。

 ヘブル語の「ネフェシュ」に相当するギリシア語は「プシュケー」です。
イエス様の御言葉の中に次のようなものがあります。
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナ〔「地獄」(口語訳、新共同訳)〕で滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10:28・2018)と記されています。
この聖句の「たましい」と訳された語のギリシア語原語は「プシュケー」です。
イエス様は、人となられた神であり、そして人になる前は、神の第二位格としての御子であり、万物を創造された折には万物をつくられた方です。
コロサイ1:16に、“天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。”(新共同訳)と記されているように。
ギリシア語の「プシュケー」に相当するヘブライ語原語は「ネフェシュ」です。
 

 さて、KJV訳のように、a living soul と訳せば、神様が人を創造したときに、いのちの息と肉の体の相互作用の何かによって「たましい」が出来た、と解釈でき、私にとってはどの時点で魂が出来たのかを理解し易いですし、その後に、「たましい」の語が頻出することに違和感がないのです。

 なお、ヘブライ語聖書、ギリシア語聖書を翻訳したとき、(ヘ)「ネフェシュ」、(ギ)「プシュケー」は、あるところでは「魂」、あるところでは「霊」、あるところでは「者」などと訳されています。 

 少し脱線しますが、目の留まった聖句に次のようなものがあります。
1コリント15:45に、“「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。”(新共同訳)と記されています。
「 」内を、KJV訳は、“The first man Adam was made a living soul”と訳しています。
「生き物」の「物」の語のギリシア語原語は「プシュケー」です。
最後のアダムは命を与える霊となったのです」の中の「霊」のギリシア語原語は「プニューマ」です。
ヨハネ4:24の“神は霊です。”の「霊」のギリシア語原語は「プニューマ」です。
「最後のアダム」とは、復活なさったキリスト・イエス様のことです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
今日は、見えない世界のことを考察させて頂きました。
私の考察が正しいのか間違っているのか分かりませんが、ただイエス様が語られた「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナ〔「地獄」(口語訳、新共同訳)〕で滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10:28・2018)と記されている御言葉は真理であることを覚えます。
イエス様の十字架と復活によって、イエス様を信じる者は、ゲヘナに行くことなく、天のあなたの所に迎え入れて頂けるようにされましたことを大感謝します。
あなたの御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・
“1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」”(ヨハネ14章・新共同訳)

2021年11月19日 (金)

キリスト者に与えられた恵み3/新生

  新生について、神学書は色々な見解を述べています。私自身も、幾つかの神学形態の書を読み、混乱してきた経緯のある者です。

 人間の組成が、霊魂と肉体からなるという二元説が正しいのか、霊、魂、肉体の三元説が正しいのか、これは、神学家によって意見の分かれるところです。

 私は、三元説すなわち霊、魂、体(地上においては肉体)の方であると考えます。
二元説の人は、霊と魂は同じようなものだ、と考えるようです。
確かに、目で見ることが出来ず、現代の科学によっては捉えることができないということでは共通していますが。

 私が、三元説を信じるのは、
1.“平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。”(1テサロニケ5:23・2017)
2.“神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。”(ヘブル4:12・2017)
などの聖句(他にもありますが冗長になるのでこれまでとします)によります。

 これから記すのは、私が現在考えている新生の概念です。
聖句を見ていきます。この場合、イエス様に従い教えを受けた、ヨハネとペテロを中心に考えていきます。

 自分自身で、主に愛された弟子、と言い、最後の晩餐の時にも、主の胸のところで横になっていたヨハネ(ヨハネ13:23)、主の地上の母であるマリアを託されたヨハネ(ヨハネ19:26.27)は、イエス様とニコデモの会話を次のように記しています。
この会話をパウロは聞いていませんでした。その当時のパウロは、まだ主イエスに敵対していた人であったのです。

 ヨハネ3:1-8には次のように記されています。
“1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である
7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」”(新共同訳)とあります。

 “人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。”(3)と記されている中の「新たに」と訳されている語のギリシア語原語は、「アノーセン」で、新しく、上から、の意があります。
この箇所は、「アノーセン」の一語をもって、「上から、新たに(新しく)」の意が表されているものと私は思います。

 “霊から生まれたものは霊である”(6)と記されている中の「から」と訳されている語のギリシア語原語は、「エク」で、その第一義的な意味は、「~から」(from)の意です。

 ∴新生は、神の霊から生まれた霊をのことを言っていると思います。

 “霊から生まれたものは霊である”(6)と日本語に訳している日本語訳聖書には、新共同訳の他、口語訳、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳、岩波訳、前田訳等があります。

 以上のことから、新生とは、神の霊から生まれた霊のことを言っていると私は思うのです。

 尚、旧約時代の書であるゼカリヤ書には、“人の霊をその中に造られた主”(ゼカリヤ12:1・口語訳)という聖句が記されています。
しかし、新生の恵みは、新約時代に入ってからのものなのです。

 1ペテロ1:3には、“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。”(2017)と記されています。

 一方、魂は、両親からの誕生時にはすでに人に備わっているものであり、魂は、神の霊から生まれた霊ではなく、イエス・キリスト様を信じた時に救われたものです。
1ペテロ1章には次のように記されています。
“8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。”(2017)とあります。

 新生が、神の霊からの霊の誕生であるとすると、次の聖句を理解することができます。
“神から生まれた者はみな罪を犯さない・・・”(1ヨハネ5:18・2017)という聖句です。
この箇所を直訳すると、「神から生まれたすべては罪を犯さない」となると思います。
「神から生まれたもの」、「神から生まれたすべて」は、「霊」です。体と魂は、両親からのものであり、新生した霊は、神からのものであるからです。
「神から生まれたもの」をキリスト者と置き換えて読んでしまうので、キリスト者は罪を犯し続けません、という解釈も生まれるのです。
新生した「霊」は、罪を犯さなくても、生まれながらの魂と肉体は、罪まみれです。魂が救われた後であっても、魂は罪を犯します。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
神性の教義については諸説ありますが、わたし自身としては、上記のような見解に至り、幸せを感じています。
あなたの霊から誕生させて頂いた霊を持たせて頂いていますことを感謝します。
霊の人としての歩みを継続していくことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

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2021年11月18日 (木)

キリスト者に与えられた恵み2/義認

 以前にも書きましたが、人は、生まれながらに罪をもって生まれてきます。
人は、生まれつきサタンの支配下にあります(エペソ2:1-3)。
人は、神の正しさ(義)の規範である律法を守ることが出来ません(ローマ3:10-12.23)。
それ故神にあっては、人は犯罪人です。不義の人に対する神の法廷における判決は、死刑というものでした。
ローマ6:23aには、“罪の報酬は死です。”(2017)と記されています。

 ローマ3:10には、「義人はいない。一人もいない。」(2017)、「正しい者はいない。一人もいない。」(新共同訳)と記されています。
神である主から見ると、人は生まれながらに悪人(悪い人)なのです。
聖書は、人を性悪(しょうわる)であると述べています。

 アダムは、罪を持たない人として創造されました。
しかし、ある時、神よりもエバを愛し、サタンの誘惑に乗ってしまったエバの勧めを断ることが出来ず、神に禁止されていた唯一の条項を破って堕罪しました(創世記3章)。
アダムは人の祖先です。
人は堕罪したアダムの罪の性質を受け継いで生まれることとなったのです。
それ故、アダムの子孫である人間は、罪の性質をもって生まれてくるようになりました(ローマ5:12、詩篇51:5)。

 罪を持たずに誕生し、罪を犯さずに生涯を終えた人は、神が人となられたイエス・キリスト様ただ一人です。

 義と認める(義認)とは、それは主なる神の法廷上におけることであり、人は、義なる行為が完璧に出来るようになるというものではありません。
おそらく義なる行為を自然に行うことが出来るようになるのは、黙示録19:8の時以降のことではないかと思います。
霊の体を与えられたからといって、それだけで義の行為を完璧に行えるものではないのだろうと思います。
サタンは、元大天使であり、サタンに従った多くの堕天使たちも、霊的存在者でしたから。

 さて、主である神様は、どのようにして不義なる人を義と認めることができたのでしょうか?
聖句は次のように教えてくれています。

 ローマ3:21-31は次のように述べています。
 新共同訳には、
“21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。
31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。”と記されています。

 リビングバイブル旧版は次のように意訳しています。
“21.22 しかし今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、実際には新しい道とは言えませんが〕。神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
23 そうです。すべての人は罪を犯しました。神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
24 けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。
25 神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
26 そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。いいえ、そんなことはありません。なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。
27 それでは、救われるために、私たちは何か誇れるようなことをしたでしょうか。何もしていません。なぜでしょう。私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。それは、キリスト様が成し遂げてくださったこととキリスト様に対する私たちの信仰に基づいているのです。
28 つまり、私たちが救われるのは、キリスト様を信じる信仰だけによるのであって、善行によるのではありません。
29 神様はこの方法で、ユダヤ人だけをお救いになるのでしょうか。
いいえ、それ以外の外国人も、同じようにして神様のもとに行くことができます。
30 神様はすべての人を全く平等に取り扱われます。ユダヤ人であろうと外国人であろうと、人はみな、信仰があれば無罪とされるのです。
31 それでは、信仰によって救われるのなら、もはや神様のおきてに従う必要はないことになるのでしょうか。正反対です。実のところ、私たちはイエス様を信じきってこそ、ほんとうに神様に従うことができるのです。”と記されています。

 1コリント1:30を、
 新改訳第3版は、“・・あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。”と記し、
 口語訳は、“あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。”と記しています。

 ローマ4:25を、
 2017は、“主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。”と記し、
 新共同訳は、“イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。”と記しています。

 義認について聖書辞典は次のように述べています。
義認は司法的宣言行為であるから、神に義と認められるためには、神との間に正しい法的関係が存在しなければならない。しかし、罪人にはそれがないし、また罪人自身にそれをつくり出すことはできない。それは、神によってのみ可能なのである。神は単に御自分との正しい関係を宣言されるだけでなく、その正しい関係をつくり出してくださるのである。それは,キリストの義を罪人に転嫁することによってなされる。その転嫁されたキリストの義に基づいて義と認められるのである。キリストの義とは、キリストが十字架の死に至る完全な従順によって獲得された義のことである。
 義認の根拠はこのキリストの義であって、人の側の行いでも信仰でもない。しかし、創世記15:6、ローマ4:3.9.22、ガラテヤ3:6、ヤコブ2:23で、アブラハムについて、「彼は主を信じた.主はそれを彼の義と認められた」と言われていることから、アブラハムが義と認められた根拠は彼の信仰であったと理解されやすい。もしそうであったとすれば,アブラハムは信仰のゆえに義とされたということになる。しかし、聖書は決してそのような理解を示してはいない。聖書は常に、信仰によって、信仰を通して、信じて、義とされると言っているのであって、信仰のために、信仰のゆえに義とされるとは決して語っていないのである。義認の根拠は罪人に転嫁されたキリストの義であって、人の側の行いでも信仰でもない。
 しかし,キリストの義が罪人に転嫁されるのは信仰によって、信仰を通して、である(ローマ1:17、3:22.25‐28.30、4:3.5.16.24、5:1、ガラテヤ2:16、3:8‐9、5:4‐5、ピリピ3:9)。
 ここで誤解してならないことは、この信仰は私たちが義と認められていることを信じる信仰のことではない。すなわち、すでに義と認められているのにそれを知らず、あるいは、疑っていた人が真実を知り、信じるようになるという意味の信仰のことではない。
 信じることによって初めて義と認められる信仰のことである。キリストを信じる信仰が義認に先行するのであって、義認が信仰に先行しているのではない。
 ただし、神の永遠の計画において、キリストにあって救いに選ばれた者は、永遠においてすでに義と認められているとか、キリストが十字架の死に至る従順を全うされた時に、キリストにあって選ばれた者はキリストにあってキリストと共に従順を全うしたので義と認められていると言われるような意味の義認であるならば、信仰に先行していると言うこともできるであろう。しかし、それは神の計画の上でのことであり、また十字架のキリストにおいて起っていたことであって、この世に生きている者が現実に義と認められるのはキリストを信じる信仰によってのみなのである。
”(抜粋・筆者:松田一男氏)と記しています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
わたしの様に、不義の内に生まれた者が、あなたの恵みによって義と認めて頂けましたことを感謝します。
イエス様、あなたの十字架と復活を感謝します。
日々、御聖霊に導かれ、助けられて、できるだけ義なる歩みをしていくことができますよう助けてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月17日 (水)

キリスト者に与えられた恵み1/悔い改め

 今日からしばらくは、私に与えられた恵み、これから先、私に与えられる恵み、今、私に与えられている恵み、すなわちキリスト者に与えられている恵みについて、一つ一つのテーマに分けて述べていこうと思います。

 キリスト者の救われる前の状態はどのようなものであったのでしょうか?
一人一人、その歩みは異なるでしょうが、共通していることは、まことの神すなわち神である主から分離され、悪魔(サタン)の支配下あることを意識せず、悪魔(サタン)の支配下にあって生きてきたというものです。

 エペソ2:1-3を、
 2017は、“1 さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、2 かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。3 私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。”と訳し、
 新共同訳は、“1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。”と訳し、
 リビングバイブル旧版は、“1 以前、あなたがたは神様からのろわれた存在であり、罪のために永遠に滅びる運命でした。2 世間一般の人と同じ生き方をし、別に変わったところもありませんでした。罪にまみれ、空中の権威を持つ、力ある支配者サタンの言うままになっていたのです。このサタンは、主に反抗する人の心に、今も働きかけています。3 私たちもみな、以前はほかの人たちと全く同じでした。その生活ぶりは、心にある悪を反映したものでした。欲望や悪意のおもむくままに、あらゆる悪事を重ねていたのです。私たちは、生まれつきの悪い性質で悪へと突っ走り、他のすべての人と同様、神様の怒りを受けて当然の者でした。”と意訳しています。

 イエス様の御救いにあずかる前の私は、エペソ2:1-3のような状態の者であることを、全く知らなかった者です。それどころか、それなりに善人であると思ってきた面もあったのです。悪いことも行ってきたのに。
性善説というのは、おそらく悪魔、悪霊の入れ知恵なのでしょう。

 コロサイ2:8を、
 2017は、“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。”と訳し、
 口語訳は、“あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。”と訳し、
 新共同訳は、“人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。”と訳しています。

 この世が、悪魔(サタン)の支配下にあることについて、1ヨハネ5:19は、次のように述べています。
 2017は、“私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。”と訳し、
 新共同訳は、“わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。”と訳し、
 口語訳は、“また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。”と訳し、
 リビングバイブル旧版は、“私たちは神様の子供ですが、周囲の世界は、悪魔の力の支配下にあることを、知っています。”と意訳しています。

 サタン(悪魔)の支配下にある者が、どの様にしてそこから抜け出すことができるのでしょうか?
イエス様の御言葉に次のようなものがあります。
わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(マタイ12:28.29・新共同訳)と記されています。
 「神の国」の「国」のギリシア語原語は「バシレイア」で、国の他、支配、等の意もあります。
「強い人」とは、サタン(悪魔)のことです。
「その家」とは、サタンの王国のことです。
「家財道具」とは、所有物のことで、サタンに支配されている人のことです。

 というわけで、ひとり子の御子であられるイエス様が、肉体を纏って地上に現れ、公生涯に入った後、マタイ12:28.29の御言葉は成就したのです。

 罪について、世界に目を向けると、人々は、同じ考えを持っているわけではありせん。
イスラム教の人、共産主義国の人、国家元首個人を崇拝しているorさせられている国の人、民主主義国の人、倫理道徳の根本をなす教育の違い、等により罪概念は変わります。

 まことの罪とは、神のみ旨に従わないことです。
イエス様の要約によれば、まことの神である主を愛さないこと、隣人を自分のように愛さないことです(マタイ22:37-40参照)。
具体的には、10のことば、いわゆる十戒を破ること、それが罪です。

 イエス様は罪について次のようにも語られました。
「罪とは、わたしを信じないことです。」(ヨハネ16:9・リビングバイブル旧版)

 人は、罪をもって生まれたのです。
 詩篇51:5には、「私は生まれながらの罪人なのです。母が私をみごもった時から、罪人でした。」(リビングバイブル旧版)と記されています。
 ローマ5:12には、“一人の人〔アダム(筆者挿入)〕によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ”(新共同訳)と記されています。
代々、人は、アダムの罪を受け継いで、罪をもって生まれてくるのです。
この罪というのは、具体的な個々の罪ではなく、罪の性質です。
罪の性質をもって生まれて来るので、罪を犯すのは自然なことなのです。
人は、だれかに教えてもらわなくても、嘘をつき、嫉妬やねたみを起こし、人のものを欲しがり、喧嘩をし、自分勝手です。
更に、まことの神であられる主を神とすることを、人は教えてもらわなければ知ることが出来ません。
イエス・キリスト様を信じないことが、罪であるとは、思い浮かばないことです。
イエス・キリスト様を信じれば、すべての罪を赦されるのです。
しかし、イエス・キリスト様を信じれば救われるという知識を与えられなければ、イエス・キリスト様を信じることさえもできません。
それどころか、イエス・キリスト様について教えて頂いたとしても、信じない人のほうが多いのが実状です。

 罪は、思い出せる限り、主のみ前に告白したほうが良いですが、最大の中心ポイントは、イエス様を救い主、主として信じることです。
イエス様を信じないことが罪である、ということを度外視して、まことの救いにあずかることは出来ません。
中には自分が犯した罪を悔い改めるのですが、イエス様を主としない人もいるのです。その場合には、まことの救いを得ることは出来ません。

 ローマ10:9に、“なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。”(2017)と記されています。

 初代教会の最初の人たちの言葉に次のようなものがあります。
「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」(使徒11:18・2017)と記されています。

 「悔い改め」は、神の恵みであったのです。

 「恵み」とは、“愛なる神の、人間に対する好意(愛顧)、またはそれに基づく働きかけである。それは、特に受けるに値しない対象に向けられた神のいつくしみである。”(キリスト教辞典より抜粋)
 
 救いにあずかる神の恵みの担当者は、神の第三位格である聖霊様でした。
1コリント12:3には次のように記されています。
“・・・、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”とあります。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7抜粋・2017)とイエス様は語られましたが、へりくだって救いを求めた者に、神様は、「悔い改め」を与えてくださったのです。

 「悔い改め」の中心ポイントは、「回心」です。
回心とは、まことの神である主に立ち返ることであり、それは、悔い改めと信仰の二つの要素から成り立っています。
「悔い改め」のギリシア語原語は、ほとんど「メタノイア」(または動詞〈ギ〉メタノエオー)であり、文字通りには心の転換を意味しています。
キリストの方へと心を転換すること、それが中心ポイントです。
そして、キリスト・イエス様を「主」として歩むのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
わたしにも悔い改めの恵みを与えてくださり、イエス様を信じる信仰を与えてくださいましたことを感謝します。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたに感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。


2021年11月16日 (火)

終わりの時代の人の心/キリスト教世界の状態

 2テモテ3章に次のような文章があります。
“1 終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。
2 そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒瀆し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。
3 また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、
4 人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、
5 見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。”(2017)と記されています。

 1節に「終りの日には、困難な時代が来る」とあります。

「終わりの日」と訳されている「日」のギリシア語原語は「ヘーメラ」で、24時間を指すこともあれば、ある期間を指すこともあります。1節の文からすると「期間」であることが分かります。
「終わりの日」は、御子が来られた時から始まっていました。そして現在も終わりの日の期間の中にあるのです。
教会時代は、神の経綸においては終わりの時代ということなのでしょう。

 ヘブル1:2には、「この終わりの時には、御子にあって、私たちに語られました。」(2017)とあり、
 1ペテロ1:20には、「キリストは、世界の基が据えられる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために現れてくださいました。」(2017)とあります。
 「終わりの時」と訳されている「時」のギリシア語原語は「ヘーメラ」で、前述の説明通りです。
 
 終わりの時or日が、この様に長いのを、受け入れることが出来ない人もいるかもしれませんが、「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。」(2ペテロ3:8・口語訳)ということなのです。

 さて、終わりの日には、どのような心の状態になるのか、また、その心から発する行動はどのようなものであるのか、ということについて2-5節は教えてくれています。

 また、イエス様は、イエス様が地上に再臨される時が近づくにつれて、地震や国同士の敵対関係(悪感情)や戦争や飢饉(異常気象や戦争で悪化します)などが起こると共に迫害も激しくなりますよ、と教えてくれています。更にこれらのことを産みの苦しみに喩えています。陣痛の痛みは出産に向かって段々と間隔が短くなっていきます。また痛みも強くなっていきます。イエス様の譬えが教えてくれているように、主の地上再臨{神の国が産み出されること(出産)}が近づくにつれて2テモテ3:2-5に記されているような人心の荒廃はひどくなり、災害や戦争や敵対関係もひどくなるのでしょう。

 それでは、終わりの日の人の心や行動を2-5節より眺めてみたいと思います。
 4節の中には、“神よりも快楽を愛する者になり”という句があります。
パウロが、「神」と述べるときには、まことの神を指していると思います。

 5節aを、
 2017は、“見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。”と訳し、
 新共同訳は、“信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。”と訳し、
 口語訳は、“信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。”と訳し、
 リビングバイブルは、“教会に出席する者がいたとしても、聞いたことを何一つ信じようとしないのです。”と意訳しています。
 礼拝に出たり、皆の前で祈ったりするのですが、実際は、御言葉を信ぜず、イエス様に信頼することをしないというのです。
この様な事は、日本の教会では、あまりないでしょうが、キリスト教国と言われるor言われた国では、よくあることかもしれません。
日本の場合ですと、多くの人は葬式を仏式で行うのに、仏教の経典を知らない、という人が多い、というのと似ていると言えるかも知れません。譬えが悪いですが。

4.5節にこの様に述べられているということは、この文章全体は、世の人々の状態というよりも見せかけのクリスチャンを含めたキリスト教世界のことを言っているのではないかと思います。

 2-5節を今度は新共同訳の訳を下記します。
“2 そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。
3 また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、
4 人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、
5 信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。”と記されています。

 一言で言うと肉の性質に基づく歩みの状態が記されています。
この世の人が、肉の性質に基づく歩みをすることは、当たり前のことです。
何故なら新生していませんし、当然のことですが聖霊を与えられていないからです。
肉による歩みは、生まれながらの人の性質に基づく人中心の歩みであり、それは自己中心的であり、肉の性質に基づく自己実現を目指します。
聖なる霊による歩みは、主なる神中心であり、人が神に従うものです。
人祖アダムに罪が入ったときは、神中心から、自己中心に変わったときでした。
アダムの罪は、その後の子孫すべてに受け継がれたのです(ローマ5:12、詩篇51:5)。

 ガラテヤ5章の中には、肉の行いと聖霊に導かれた人の徳性の違いについて次のように記されている箇所があります。
“16 あなたがたに勧めます。聖霊の導きに従いなさい。聖霊は、どこへ行くべきか、何をなすべきか教えてくださいます。そうすれば、自分の肉の欲望のおもむくままに走ることはありません。
17 私たちの生まれながらの性質は、聖霊がお命じになることとは正反対の悪を好みます。一方、聖霊の導きに従って歩んでいる時に行ないたくなる善は、生まれながらの肉の願望とは正反対のものです。内面のこの二つの力は、どちらも私たちを思いどおりに動かそうと、いつも格闘しています。そして私たちは、この二つの力の板ばさみになって、したいと思うことが自由にできない状態なのです。
18 しかし、本来聖霊に導かれているあなたがたは、もう自分を律法に従わせる必要はありません。
19 生まれながらの悪い性質、つまり肉に従った結果がもたらすものは明らかです。すなわち、汚れた思い、好色、
20 偶像礼拝、心霊術、憎しみ、争い、怒り、利己心、不平、あら捜し、排他主義と、そこから出て来るまちがった教え、
21 ねたみ、人殺し、泥酔、遊興、そのような種類のものです。前にも言いましたが、もう一度言いましょう。そのような生活を続ける者は、一人として神の国を相続できません。
22 しかし、聖霊が生活を支配してくださる時、私たちのうちに、次のような実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。そこには、律法に反するものは何もありません。
24 キリストに属する者は、生まれながらの自分が持つ欲望を十字架につけてしまったのです。
25 もし私たちが聖霊の力を受けて生きているなら、すべてに渡って、その導きに従おうではありませんか。
26 そうすれば、互いにねたみ合ったり、いがみ合ったりすることはないでしょう。”(リビングバイブル)と記されています。

 新生、聖化、栄化というライン上を歩んでいきましょう。
<新生> 1ペテロ1:3には、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ」(2017)と記されています。これは「霊」について言っています(ヨハネ3:3.6)。
<聖・聖化> キリスト者の生活における聖化は、新生時に瞬間的に聖とされる{(神のものへと聖別される)ヘブル10:10}側面と,そのキリスト者としての生涯を通じて,その状態がよりキリストに似たものとなるという意味において漸進的に聖とされていく過程(1ペテロ1:15.16)を意味するものとの2通りがあります。
<栄化> 栄光の体、すなわち霊の体に変えられること{(キリストの空中再臨時)1コリント15:52、1テサロニケ4:16.17}

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
いつもあなたを愛し、聖霊様の導きに従って歩み続けて行くことができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月15日 (月)

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 マタイ25:1-13は次のように記されています。
“1 そこで、天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。
2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。
4 賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物〔器(文語訳)〕に油を入れて持っていた。
5 花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。
6 ところが夜中になって、『さあ、花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7 そこで娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えた。
8 愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』
9 しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』
10 そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。
11 その後で残りの娘たちも来て、『ご主人様、ご主人様、開けてください』と言った。
12 しかし、主人は答えた。『まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。』
13 ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。”(2017)とあります。

 現代のイスラエルでの婚礼の様子は、昔のユダヤの婚礼の様子とは異なってきているようですが、昔のユダヤの婚礼のあり様について2017バイブルナビは次のように述べています。
“婚礼の日、花婿は儀式として花嫁の家に行き、花嫁と花婿は大行列と一緒に花婿の家に戻る。そこで祝宴が行われ、多くの場合、1週間続いた。”(抜粋)と記しています。

 上記の2017バイブルナビの文章は、1テサロニケ4:16.17節に似ており、そこには次のように記されています。
“16 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、17 それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。”(2017)とあります。
 また、婚礼の祝宴については黙示録19:6-9に次のように記されています。
“6 また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。
7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。
8 花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
9 御使いは私に、「子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ、と書き記しなさい」と言い、また「これらは神の真実なことばである」と言った。”(2017)とあります。 

 「多くの場合、1週間続いた」とバイブルナビにありますが、携挙から地上再臨までの期間は、約7年間です。
とは言え、天における婚宴は、1週間続くのではありませんが、私たちキリスト者の1週間の気分は、ほとんどの時間、楽しみで満たされることでしょう。天においてイエス様と一緒であり、御父と一緒であり、兄姉たちと一緒なのですから。

 マタイ25:1-12は、たとえ話ですから、一字一句を厳密に考えることをしませんが重要な所は押さえておきます。

 私は、この譬え話をキリストの空中再臨とそれに伴う携挙、及び天での婚宴の儀を念頭において、主の空中再臨の時は何時だかわからないのだから、いつも霊的に目を覚ましていなさい、聖霊に満たされていなさい、ということを教えてくださっておられるように思います。

 1節の「天の御国」を、地上の教会と捉えます。
「天の御国」と訳された語のギリシア語原語の「天」は「ウラノス」、「御国」は「バシレイア」で国の他に支配、統治等の意もあります。教会は、地上における神が統治されている国(領域)です。

 霊的な教会は、新生した者たちの集合体であり、キリストの花嫁です。
 エペソ5:22-32には次のように記されています。
“22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。
23 キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。
24 教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。
25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。
26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
27 ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
28 同様に夫たちも、自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。
29 いまだかつて自分の身を憎んだ人はいません。むしろ、それを養い育てます。キリストも教会に対してそのようになさるのです。
30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
31 「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」
32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです
33 それはそれとして、 あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。 妻もまた、自分の夫を敬いなさい。”(2017)とあります。

 「ともしび」は、詩篇119:105に、“あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。”(2017)と出て来ます。
10人の娘は皆、神のことばを、光り方は異なっていても持っていたのでしょう。

 「油」は聖霊、神の霊、キリストの霊、等を表しているでしょう。

 「入れ物or器」は、地上の体、すなわち肉体を指して言っているのでしょう。
2コリント4:7に、“私たちは、この宝を土の器の中に入れています。”(2017)とあり、この聖句では、肉体を「土の器」と表現しています。
人の体は、土の成分即ち地球の成分、さらに言えば地球を構成している元素の一定部分からできています(創世記2:7)。

 8.9節には、“愚かな娘たちは賢い娘たちに言った。『私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。』
9 しかし、賢い娘たちは答えた。『いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。』”とあります。

 キリストの空中再臨、これは「キリストの現れ」とも表現されています(1コリント1:7、1テモテ6:14.15)が、その時に、「油」即ち、「神の霊」が無いと何故困るのでしょう。
それは栄光の体に変えていただくことができないからです。

 ローマ8:11には、“もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。”(新共同訳)と記されています。

 キリストの体のよみがえりは、神の霊によることでした。
地上の体、すなわち肉体は、「死ぬはずの体」です。
キリスト者の体が、イエス様がよみがえられた時の様に変えられるためには、「神の霊」が必要なのです。
「神の霊」の宿っている人が、霊の体によみがえらされるのです。

 その関連箇所として、1コリント15章から必要箇所を下記します。
“35 しかし、「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」と言う人がいるでしょう。/
40 また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、/
42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
〔44節を、口語訳は、“肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。”と訳し、
新共同訳は、“つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。”と訳しています。(筆者挿入)〕
45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました〔「最後のアダムは命を与える霊となったのです」(新共同訳)「最後のアダムは命を与える霊となった」(口語訳)、これは復活したキリストのことです。復活したキリストの体は霊の体です(筆者挿入)〕
46 最初にあったのは、御霊〔「霊」(口語訳、新共同訳)〕のものではなく血肉のものです。御霊〔「霊」(口語訳、新共同訳)〕のものは後に来るのです。
47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。
49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
日々聖霊に満たされて歩ませて頂けますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。 

2021年11月14日 (日)

キリスト・イエス様はキリスト者に何を基に報酬を与えて下さるのでしょうか

 キリスト者に報酬をもたらす基準となるものを聖書からピックアップしてみます。
1.主から託されたタラントを適切に用いたか否か(マタイ25:14-30)
  タラントは、通貨と重さの単位として用いられたようです。
  通貨としては、1タラント=1デナリ、重さとしては、1タラント=34kgとなります。
  1デナリは、イエス様が地上におられた頃の1日分の労賃でした。
  ですから、1タラントは、6000デナリで、6000日分の労賃、
  2タラントは、12000日分の労賃、
  5タラントは、30000日分の労賃です。

 マタイ25:14-30には次のように記されています。
“14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。
15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。
 するとすぐに、16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
 17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
 18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
 19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
 20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。
『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』
21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
 22 二タラントの者も進み出て言った。
『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』
23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
 24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。
『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』
26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』”(2017)とあります。

 タラントの譬えは、主が、一人一人のキリスト者に、主のエクレシア{主に呼び出された者たちの集まり(教会)}を建てあげるために、霊的な賜物(ローマ12:6-8、1コリント12:4‐11,28‐30、エペソ4:11参照 )や財産(マタイ6:20)や生涯をどのように用いたか、ということを述べているのではないかと思います。
{「生涯」という語を入れた理由:
聖書では安息日は7日の内の1日ですから、1年間の仕事日数は約300日になります(太陽暦でいうと)。
かなり大雑把ですが、5タラント=30000デナリは約100年間の労賃、2タラント=12000デナリは約40年間の労賃、1タラント=6000でデナリは約20年間の労賃になります。体の丈夫さ、働ける寿命等は人により異なります。∴生涯という文字を入れたのです。}

2.主から託されたミナを適切に用いたか否か
  ミナは、通貨の単位で、1ミナが100デナリでした。
 ルカ19章には次のように記されています。
“12 イエスはこう言われた。
「ある身分の高い人〔キリスト・イエスを暗示している(筆者挿入)〕が遠い国に行った。王位〔キリストの千年王国の王位を暗示(筆者挿入)〕を授かって戻って来るためであった。
13 彼はしもべを十人〔十は完全数、しもべは教会時代のキリスト者なので、「キリスト者全員」を暗示(筆者挿入)〕呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
14 一方、その国の人々は彼を憎んでいた〔この世の人々はキリストの支配よりサタンの支配、肉的な支配を望み、サタンに支配されていた{1ヨハネ5:19、エペソ2:2.3参照}(筆者挿入)〕ので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。
15 さて、彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。
16 最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』
17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
18 二番目のしもべが来て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』
19 主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』
20 また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。
21 あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』
22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。
23 それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私が帰って来たとき、それを利息と一緒に受け取れたのに。』
24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』
25 すると彼らは、『ご主人様、あの人はすでに十ミナ持っています』と言った。
26 彼は言った。『おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられるのだ。
27 またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」”(2017)とあります。

 ミナの譬えは、主が、一人一人に1ミナを与えるというものですから、一人一人が同じものをもらっているのです。
それ故、私は、ミナの譬えは、時間のようなものではないかと思います。地上での生存年数は異なりますが、1日に与えられている時間は、だれでも24時間ですから。
主は、時間を有効に使いなさい、ということを述べているのではないかと思うのです。
あなたに委ねてある時間を、私のために(キリストのために)有効に使いましたか、というようなことではないかと思います。

3.善を行なったか否か
 ➀ガラテヤ6:6-10には次のように記されています。
“6 みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。
7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
9 失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。
10 ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。”(2017)とあります。

 ➁マタイ10:40-42には次のように記されています。
“40 あなたがた〔キリストの弟子(筆者挿入)〕を受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。
41 預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。
42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。”(2017)とあります。

4.キリストの故に、殉教、迫害を受けた人
 ➀マタイ5章には次のように記されています。
“10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。”(2017)とあります。
 平行記事のルカ6章には次のように記されています。
“22 人々があなたがた〔キリスト者(筆者挿入)〕を憎むとき、人の子のゆえ〔キリストの故に(筆者挿入)〕に排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
23 その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。”(2017)とあります。
 2テモテ2:11-13には次のように記されています。
“11 次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。12 耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。13 私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」”(2017)とあります。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
コロサイ3:23には、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(2017)と記され、
マタイ20:28には、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(2017)というイエス様の御言葉が記されています。
あなたが人に定めた幸せな生き方の法則は、神を愛し、隣人を愛する生き方、愛の故に神に従い、神と人に仕える生き方であることを覚えますし、そのような生き方は、キリストの裁きの座で、報いを受け取ることができるということを教えてくださっておられますからありがとうございます。
ますます主イエス様を、そして御父を愛する者としてお整え下さいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月13日 (土)

キリスト者はキリストの裁きの座の前に立たされる

 2コリント5:10に次のような聖句があります。
 2コリント5:10を、
 2017は、“私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。”と訳し、
 新共同訳は、“なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体〔地上の体=肉体(筆者挿入)〕を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。”と訳し、
 リビングバイブルは、“なぜなら、やがて私たちはみな、キリストの前でさばきを受けなければならず、全生活がさらけ出されることになるからです。善であれ悪であれ、地上の体でいる時の行ないに応じて、私たちはそれぞれ、ふさわしい報いを受けるのです。”と訳しています。

 イエス様ご自身が、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」(ヨハネ5:24・2017)と語られ、
ヨハネ3:18には、“御子を信じる者はさばかれない。”(2017)と記されているにもかかわらず、キリスト者が裁かれるとは、何ごとでしょう、と混乱される方もいるとのこと。

 キリスト者は、罪のために裁かれることはありません。
それは、イザヤの預言に、
“5 彼〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
6 わたしたちは羊〔主の民(筆者挿入)〕の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。”(イザヤ53章・新共同訳)
と記され、
2コリント5:21に、
罪と何のかかわりもない方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。”(新共同訳)と記されている通りです。

 それでは、キリストの裁きの座で、キリスト者の何が裁かれるのでしょうか?
キリストの裁きの座は、キリスト者に与えられる報酬を決定する場であるのです。

 キリスト者の中には、報酬を頂けない人と、報酬を頂ける人がいます。
更に、報酬にもクラス分けがあるのです。
1コリント3章には、
“12 この土台〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、
13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、
15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます〔報酬は得られません(筆者挿入)〕。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます〔自分自身は救われます(筆者挿入)〕。”(新共同訳)
と記されています。

 キリストの裁きの座において、報酬が決定される時はいつなのでしょうか?
黙示録11章に、
“15 第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」
16 すると、神の御前で自分たちの座に着いていた二十四人の長老たちが、ひれ伏し、神を礼拝して言った。
17 「私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。
18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りが来ました。死者〔霊的死者=キリストを信じていない者(筆者挿入)〕がさばかれる時、あなたのしもべである預言者たちと聖徒たち、御名を恐れる者たち、小さい者にも大きい者にも報いが与えられる時〔キリストの裁きの座が開かれて報いが与えられる時(筆者挿入)〕、地を滅ぼす者たちが滅ぼされる時です。」”(2017)と記されています。

 携挙から、キリストの地上再臨までの間は、恐らく7年+X日ありますから、その間に、天上において、キリストの裁きの座が開かれるのですが、“第七の御使いがラッパを吹いた。”と記されていますから、大患難時代の後半に、キリストの裁きの座が開かれることが分かります。

 キリストの裁きの座における裁きの基準について、イエス様は、地上におられるときにヒントを与えてくださっておられました。
それは、
タラントの譬え(マタイ25:14-30)、
ミナの譬え(ルカ19:12-27)、
ブドウ園の譬え(マタイ20:1-16)
etc.
と記されています。

 新約聖書の手紙の方を読むと、そこにも、どのようなものに報酬が与えられるのかが記されていますが時間の都合上割愛します。

 キリスト者は、地上に置かれている間に罪を犯すと、主から懲らしめが来ます。主は、私たちを地上にいる間に、裁くのではなく矯正するのです。
ヘブル12章には、
“1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
3 あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。
4 あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。
5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。
6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」
7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。
8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。
11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。
12 ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。
13 また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
日々、御霊によって導かれ、御霊から力を与えられて、走るべき道を完走して行くことができますよう、祝福してください。
慈しみ深いあなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月12日 (金)

主なる神を信じる者に対する旧約時代の祝福と新約時代の祝福の違い

 旧約時代の祝福は物質面によく表れています。
申命記28:1-14には次のように述べられています。
“1 もし、あなたが、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。
2 あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く。
3 あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
4 あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。
5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。
6 あなたは入るときにも祝福され、出て行くときにも祝福される。
7 主は、あなたに向かい立つ敵どもをあなたの前で敗走させる。彼らは一つの道からあなたを攻めて来るが、あなたの前で七つの道に逃げ去る。
8 主はあなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざが祝福されるように命じられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
9 あなたが、あなたの神、主の命令を守り主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたをご自分の聖なる民として立ててくださる。
10 地上のあらゆる民はあなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れるであろう。
11 主があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われたその地で、主はあなたの胎の実、家畜が産むもの、大地の実りを豊かに恵んでくださる。
12 主はその恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それで、あなたは多くの国々に貸すが、借りることはない。
13 私が今日あなたに命じる、あなたの神、主の命令に聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとし、尾とはされない。あなたはただ上になり、下になることはない。
14 私が今日あなたがたに命じるこのすべてのことばから右や左に外れ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。”(2017)と記しています。

 一方、新約時代のキリスト者に対する確実な祝福は霊的なものです。
 エペソ1:3には、“神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。”(2017)と記されています。

 イエス様が語られた山上の垂訓は次のように記されています。
原語のギリシア語聖書は、最初に、「祝福されています」「幸いです」{(ギリシア語)マカリオス}という単語が置かれています。日本語訳では文語訳の語順がそのようなので、文語訳を下記します。

 マタイ5:1-12節には次のように記されています。
“1 イエス群衆を見て、山にのぼり、座し給へば、弟子たち御許にきたる。
2 イエス口をひらき、教へて言ひたまふ、
3 『幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。
4 幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。
5 幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣(つ)がん。
6 幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。
7 幸福なるかな、憐憫(あわれみ)ある者。その人は憐憫を得ん。
8 幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。
9 幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱(とな)へられん。
10 幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。
11 我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐(いつわ)りて各樣(さまざま)の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。
12 喜びよろこべ、天にて汝らの報(むくい)は大(おおい)なり。”(文語訳)

 ルカ6:20には次のように記されています。
イエス目をあげ弟子たちを見て言ひたまふ『幸福なるかな、貧しき者よ、神の國は汝らの有(もの)なり。”(文語訳)

 ヤコブ2:5には、「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。」(2017)と記されています。
主に信頼している信仰者は、ますます信仰に富む者とされるというのです。

 キリスト者に対して、主なる神様が約束してくださった物質的なものは、衣食です。
1テモテ6:8には、「衣食があれば、それで満足すべきです。」(2017)と記されています。
その前後も読むと次のように記されています。
“7 私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。
8 衣食があれば、それで満足すべきです。
9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。
10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。
11 しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。
12 信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。”(2017)

 ヘブル13:5には、“金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。”(2017)と記されています。

 主は、私たちのすべてをご存知です。当然、何が必要かもご存知です。
ピリピ4:19を、
 リビングバイブル旧版は、「この神様は、キリスト・イエスが成し遂げてくださったことに基づいて、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださる方です。」と記し、
 2017はこの箇所を、「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」と記しています。

 私たちキリスト者の国籍は天にあります(ピリピ3:20)。私たちは、神から地に遣わされているのです。主なる神様は、私たちキリスト者が、この世で、世的に成功することを喜んでいるのではなく、神を愛し、神に従い、神がキリスト者に望んでおられる歩み方をする者であることを喜ばれるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主なる神様を愛し、従い、あなたの教えに従って歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月11日 (木)

わたしの国はこの世のものではありません

 「わたしの国はこの世のものではありません。」 
イエス様がピラトに尋問されたときに、ピラトに語ったことばです。

 ヨハネ18章に次のように記されています。
“28 さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。
29 それで、ピラトは外に出て、彼らのところに来て言った。
「この人に対して何を告発するのか。」
30 彼らは答えた。
「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません。」
31 そこで、ピラトは言った。
「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」
ユダヤ人たちは言った。
「私たちはだれも死刑にすることが許されていません。」
32 これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。
33 そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで言った。
「あなたはユダヤ人の王なのか。」
34 イエスは答えられた。
「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」
35 ピラトは答えた。
「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」
36 イエスは答えられた。
わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
37 そこで、ピラトはイエスに言った。
「それでは、あなたは王なのか。」
イエスは答えられた。
「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
38 ピラトはイエスに言った。
「真理とは何なのか。」こう言ってから、
再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。
「私はあの人に何の罪も認めない。」”(2017)とあります。

 余談になりますが、37節の「真理」と訳された語のギリシア語原語は、「アリスィア」で、truthの意です。truthには、真理以外にも実在という意もあります。the truth of God は、神の実在、とも訳せます。

 日々、このブログに何を書いたら良いのかを主に祈りますが、寝ているときに与えられた御言葉が、「わたしの国はこの世のものではありません」という御言葉でした。

 私は、ハッとしました。
私は神の国の住人なのに、その認識が少し薄れていたのです。
私は、神の国からこの世の国に遣わされている者なのに。

 イエス・キリスト様の御救いにあずかる前の私は、エペソ2:1-3に、“・・・自分の過ちと罪のために死んでいた〔神と交わることの出来る機能を持つ霊が死んでいた(筆者挿入)〕のです。この世を支配する者〔悪魔、サタン(筆者挿入)〕、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たち〔神に従わない者たち(筆者挿入)〕の内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。・・・肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。”(2017)と記されているその者でした。

 この世は、悪魔(サタン)の支配下にあります。
1ヨハネ5:19は、“・・・全世界は悪しき者の配下〔支配下(2017)〕にある・・・”(口語訳)と記しています。
しかし、私たちキリスト者は、新生したときから、神の国の住人として頂けました。

 神の国とこの世の国は、同時に存在している一面もあるのです。
次のようなイエス様の御言葉があります。
わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタイ12:28・新共同訳)と。

 キリスト者は、新生させて頂いて、神の国の住人とされました。
そして、この世に遣わされているのです。
この世は、霊的には敵国です。サタン(悪魔)が支配しているのですから。
その国に遣わされた大使、それが新生させて頂いたキリスト者一人一人です。
ほとんどのキリスト者は、キリスト者にしていただく前と同じ場所に遣わされていますが、キリスト者は、遣わされたところで、世の光、地の塩として、主のみ旨に従って歩むのです。主のみ旨に従って歩むと、自然に、その人は、世の光、地の塩、主の栄光を現す者としての歩みをしていることになります。

 2コリント5:17-20をリビングバイブルは次のように意訳しています。
“17 だれでも、クリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。
18 この新しい出来事はすべて神から出ています。神様は、キリスト・イエスのお働きによって、私たちをご自分のもとに連れ戻してくださいました。そして、この恵みによる神との和解を、すべての人に勧める特権をも、私たちに与えてくださったのです。
19 つまり、キリストによって、この世をご自分と和解させ、その罪を数え立てずに、かえって帳消しにしてくださったのです。これが、人々に伝えるようにと私たちにゆだねられた、すばらしい知らせです。
20 こういうわけで、私たちはキリストの大使です神様が、私たちの口を通して語りかけてくださるのです。・・・。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
この世で生活し、この世の仕事についている中で、私は、この世の国の住人ではなく神の国の住人であり、キリストの大使であるということの認識が薄れてしまっていることがあります。
この世のありようと、神の国のありようを、もっと識別して、常に神の国の大使としての生き方をする者であらせてください。
私たちがあなたのみ旨に沿った歩みをすることによって、あなたの御名が崇められますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月10日 (水)

信仰について3(信仰と行いと救い)

 人は、行いによって救われること、永遠のいのちを得ることは出来ません。
それは、神が要求する善を行なう力がないからです。
それどころか人の内には、生まれながらに罪を犯す性質がアダムの堕罪以来、入り込んでいるのです(ローマ5:12、7:17.21)。
イエス様が語られた山上の垂訓を読んで、素晴らしいな、と思っても、そのすべてを守るという力はないのです。
人の内には、単数形の「罪」即ち、罪を犯させる性質or罪の性質と呼ばれるものがあるからです。

 律法は、救われるための養育係であったのです(ガラテヤ3:24)。
律法が養育係であったことの一例として、パウロは、ローマ人への手紙7章に次のように記しています。
“私が、律法は悪いものだと言っていると思いますか。絶対にそんなことはありません。それどころか、律法が私の罪を明らかにしてくれたのです。もし「むさぼってはならない」(出エジプト20:17)という律法がなければ、私は、自分の心にあるむさぼりを知らなかったでしょう。”(7節・リビングバイブル)とあります。

 一つでも罪を犯したら、行いによって永遠のいのちを頂くことは出来ません。
ヤコブ2:10を
 新共同訳は、「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」と訳し、
 リビングバイブルは、「律法全体を注意深く守っていても、一点ででもつまずけば、その人はすべてを破った者となるのです。」と訳しています。

 行いによって、神様に義と認められよう(正しい者と認められよう)、永遠のいのちを得よう、としても無理であることを私たちは知ります。

 神様は、義なるお方です。
ですから、悪を行った人を裁きます。
 神様は、愛なるお方です。
ですから、人を救いたいのです。

 神様は、罪を罰し、罪を犯した人を救う方法を考え、それを実際に行われました。
神様は、それをまずアダムに施し(創世記3:21)、アダムの子のアベルはその意味を理解して神様にささげ物をし、アベルは神様に受け入れられました(創世記4:4)。アベルは、イエス様から、義人アベル、と言われました(マタイ23:35)。
アベルは、自分の罪を認め、罪の贖いの為に、良き羊の初子を献げたからです。

 後に、神様は、贖罪のささげ物の規定を制定なさいました(レビ記4章)。
この規定は、それ以前に三一の神様の間で相談されていた事柄の予型であったのです。
その本体は、御子が贖罪のささげ物となるということでした(ヘブル10:5-10参照)。
バプテスマのヨハネは、イエス様を指し示すために遣わされた旧約最大の預言者です(マタイ11:11)。
バプテスマのヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と言ったのです(ヨハネ1:29・新共同訳)。

 バプテスマのヨハネは、イエス・キリストを贖罪のささげ物であると証したのです。

 イエス様も、ご自身が十字架に架かられる前に、3度に亘って、十字架にかかられることの予告を弟子たちにしました。

 イエス様の十字架は、私たちの罪を身代わりとして負って、罪の罰を受けるためのものでした。
イエス様は、私たちの過去、現在、未来のすべての罪を身代わりに負ったのです。
父なる神様は、イエス様が、私たちの罪をすべて引き受けて罰を受けることによって、私たちを助ける方法を取ったのです。ここに愛があるのです。
 ヨハネは、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:9.10・2017)と述べています。

 イエス様は、罪の贖いを成し遂げられました。
ヨハネは、“イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。”(ヨハネ19:30・2017)と記しています。
罪の贖いは、イエス様が十字架に架かられたことによって完了したのです。

 ヘブル10章には次のように記されています。
“5 ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。
6 全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした。
7 そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」
8 以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、
9 それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。
10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。”(2017)とあります。

 キリストの贖いは「恵み」です。
恵みとは、受けるに値しない対象に向けられた神のいつくしみです。
父なる神は、私たちを愛して、愛する御子を差し出してくださったのです。
御子は、御父を愛し、私たちを愛して、十字架上で贖いを成し遂げてくださったのです。
聖霊なる神は、御子イエス・キリストが、救い主であり、主である、ということを私たちに示してくださったのです(1コリント12:3)。
私たちが救われたのは、「この恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは私たちから出たことではなく、神の賜物(ギフト)です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8.9を元に字句変更)

 何故か、イエス様を信じて救われたにもかかわらず、少し時がたつと、イエス・キリストを信じる信仰だけでは物足りず、行いを良くして救われようとする人たちor行いをも伴わないと救われていないのではないかと考える人達が後を絶ちません。
これは、「イエス様、あなたの贖いだけでは不足ですよ、不十分ですよ。」と言っているのと同じです。

 本当に良いといわれる行いは、救われなければ、為し得ません。
よき行いは、神の栄光のための行いであるべきだからです。
「あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」と、1コリント10:31に述べられています(2017)。
自分の救いを確かにしようとするために良き行いをしようとすればするほど、救いは確かではなくなることでしょう。
救いを、信仰のみによっているのではなく、信仰+行いによっているからです。

 イエス・キリストを信じる信仰のみによって救われた人は、その後も主に信頼し、聖書を読み、祈りながら生活してくと、良き実を結ぶようになるのです。主の霊が働いてくださるからです(2コリント3:18)。
2コリント3:17.18を新共同訳は、「ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」と述べています。
但し多くの場合、人間の子供の成長と同じで、赤子のときもあれば、幼児のときもあり、少年期、青年期、・・・と時間がかかるのです。
生まれるや否や直ちに成熟した大人になるわけではありません。
マルコ4章は、“26 またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、27 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。28 地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。」”(2017)と記しています。

 マルコ4:26の「神の国」の「国」と訳されている語のギリシア語原語は、「バシレイア」で、国の意の他、“rule”の意があり、よく「神の国」を神の支配(統治)とも訳します。またruleは、数学では、公式の意があります。“as a rule ”は、一般に、通例は、の意になります。
主と共に歩む人は、後になって、主が自分をお整え下さったことを感謝することでしょう。い故人としても嬉しいことですが、それは主の栄光のためであることも忘れないようにすべきであると思います。
私たちは、主を賛美するように期待されているのです(エペソ1:6.12.14、ヘブル13:15)。
「主を賛美するために民は創造された。」(詩篇102:19b・新共同訳)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
救いと行いについてごちゃごちゃになっている人を助けてあげてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月 9日 (火)

信仰について2(信仰についての一般的解釈と聖句から教えられること)

 コトバンクに掲載されている日本大百科全書の「信仰」の解説(担当筆者は藤田富雄氏)の項には、次のように記されています。

“〔信仰とは、(筆者挿入)〕神仏のように、自分にとって究極的な価値や意味をもっている対象と全人格的な関係をもち、その対象に無条件に依存し献身する心的態度をいう。
〔信仰とは、(筆者挿入)〕経験できぬ不確実なものを主観的に確実であると思い込むことではない。
宗教的体験や儀礼を繰り返すことによって、しだいに人格の内部に一定の心的態度が信仰として形成される。
信仰は個人生活を統合する中心の役割を果たすと同時に、その信仰の表現である信条、組織、制度などにより、共同体の生活を統合する活動の中心にもなっている。”

 上記の説明は、一般的日本人にとって分かり易いものであると思います。

 聖書は、どの神がまことの神なのか、
ということを啓示し、繰り返し教え、またその神は、神の民にヤハウェ(主)という神がおられることを経験させるということを行ってきたことを記しています。

 創世記1章では、聖書の神こそが、創造者であり、他のものは、被造物である、と述べています。
創世記2:4には、“これは、天と地が創造されたときの経緯である。神である主〔主なる神(口語訳、新共同訳)、神である主(2017、聖書協会共同訳、フランシスコ会訳)〕が、地と天を造られたときのこと。”(2017)と記され、
創造者なる神について、「主」というお名前を明らかにしています。
ここの「主」と訳されている語のヘブライ語原語は、「ヤハウェ」です。
創世記2:4において、既にヤハウェのお名前が明らかにされていることに、私は感銘を受けます。
「ヤハウェ」のヘブライ語を英語のアルファベットで表記すると、“YHVH”となります。
VはWとしても使います。
それ故、“YHVH”に母音記号をつけたときのつけ方と、Hは伸ばす記号としても機能しますので、その読み方は、ヤハウェ、orヤハヴェ、orヤーウェ、orヤーヴェ、orイェホバ、orエホバ、等と読むのではないだろうかと考えられてきたようです。
私は、岩波訳聖書の翻訳に従ってこのブログでは「ヤハウェ」として書いています。

 「神である主」or「主なる神」と訳されている語の原語は、2語で「ヤハウェ エロヒーム」とあります。
エロヒームは、神の複数形です。神は本質においては唯一であられると共に3位のお方です(三位一体)。
マタイ28:19には、“the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit”{父と子と聖霊の御名(「名は単数形」)}という箇所があります。

 出エジプト3:13-15には次のような記述があります。
“13 モーセは神に言った。
「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
14 神はモーセに仰せられた。
「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」
15 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。”(2017)と記されています。

 ヤハウェは、「わたしはある」という者、と自己紹介しておられます。
これは、永遠にして自存であることを表していると思います。
ここまでで、ヤハウェは、永遠にして自存の神であられ、万物の創造者であられることが分かります。

 話は変わりますが、
イエス様が、十字架にかかられる前、祭司長たちがイエス様を逮捕しにやって来た場面がヨハネ18章に次のように記述されています。
“3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。
4 イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
5 彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
6 イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。
7 イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。
8 イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」”(2017)と記されています。

 「わたしがそれだ」(5.6.8)と訳されている語句のギリシア語原語は、「エゴ― エイミー」です。
これは、「わたしはある」とも訳せます。
ご自身で「わたしはある」と言えるのは、神であるヤハウェ(主)だけです。
6節を、“イエスが彼らに「わたしはある」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。”と訳すと、私にとっては理解しやすいです。

 1コリント10:19.20には、
“19 私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。20 むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。”(2017)と記されています。

 偶像の神と言われているものに宿っているのは悪霊であるとパウロは言っています。
神に造られた被造物が、堕罪して悪霊となっているのです。
その親分が悪魔(ザ サタン)です。
サタンは、非常に高位の天使として造られました。しかし、堕罪し堕天使となり、自分に従う天使たちを引き連れて神に敵対したのです。彼らは悪しき霊として働いています。悪しき霊について、異なるタイプの者たちもいるかも知れませんが、それは想像の域を出ないので、省略します。
 
 エジプトにおいて、ヤハウェ(主)は、10の災いをもたらしました。
それは、エジプトの神々が本物ではないことを証明するためでもありました。
イスラエルが、ヤハウェ(主)に聖戦として戦うようにと命令されている箇所が聖書にはあります。
当時の戦争は、神と神との戦争と考えられていたのです。
ヤハウェ(主)は、ヤハウェ(主)こそまことの神であることを証明していったのです。

 新約(新契約)の時代に移り、パウロは、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17・新共同訳)と語りました。
「キリストの言葉」の箇所を新改訳は「キリストについてのことば」と訳し、欄外に、別訳として「キリストのことば」としています。

 時代は下って、私たちは皆、自分の聖書を持つことが許されています(許されていない国の民もいます)。
私たちの信仰の始まりは、キリストのことばorキリストについてのことばを聞くことから始まる場合もあるでしょうし、聖書を読んで、という場合もあるでしょう。

 まとまりのない文章になってしまいましたことをお許しください。
まことの神は、どなたなのか、
まことの神でない神を信仰しても、裁きの時には、まことの神が裁きをなさるのです(ヨハネ5:22.27)。

 聖書は、まことの神についてあかしをしています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
父、子、聖霊の三位一体の神を神として認識させてくださり、まことの神様を神様として信じ歩ませて頂けておりますことを感謝します。
まことの神様に、賛美と誉れと栄光と力が代々限りなくありますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
 

2021年11月 8日 (月)

信仰について1(救いに至る信仰)

 最初に、キリスト者にとっての基礎的信仰について考えてみます。

 キリスト者とされるための信仰は、ギフトです。

エペソ2:8には、“事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物〔ギフト(筆者挿入)〕です。”(新共同訳)と記されています。

使徒11:18には、“人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。”(2017)と記されています。
この箇所の、「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」という言葉が何故発せられたのかについては、使徒10:1からお読みください。

 聖書辞典は次のように述べています(抜粋)。
“聖書の中で基本的に重要なものとして教えられているのは,いわゆる「救われるための信仰」である。これは私たちに永遠の救いをもたらす信仰である(ヨハネ3:16)。この信仰は自分自身が罪人であり(マルコ1:15)、救いを受ける資格も力もない者であることを認め(ローマ3:23)、キリストが自分の罪のために十字架の上で贖罪のみわざをなし遂げてくださったことを認め受け入れることである(ローマ3:22‐30)。それは一般的な真理としてこの福音の事実を受け入れるだけでなく,個人的に自分自身のこととして受け入れることである(使徒16:31)。”とあります。これを書いたのは、羽鳥順二先生です。

 上記の( )内の聖句を下記します。

 ヨハネ3:16 
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(2017)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(新共同訳)
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(口語訳)

 マルコ1:15
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(2017)
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(口語訳)
「いよいよ来るべき時が来ました。神の国が近づいたのです。みな、悔い改めて、福音を信じなさい。」(リビングバイブル)

 ローマ3:23
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」(2017)
「凡ての人、罪を犯したれば神の榮光を受くるに足らず、」(文語訳)

 ローマ3:22-30
「22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
30 実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。」(新共同訳)

「22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。
27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
29 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。」(口語訳)

 リビングバイブル(旧版)は次のように意訳しています。
“21.22 しかし今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
23 そうです。すべての人は罪を犯しました。神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
24 けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。
25 神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
26 そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。
27 それでは、救われるために、私たちは何か誇れるようなことをしたでしょうか。
何もしていません。
なぜでしょう。
私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。
それは、キリスト様が成し遂げてくださったことと、キリスト様に対する私たちの信仰に基づいているのです。
28 つまり、私たちが救われるのは、キリスト様を信じる信仰だけによるのであって、善行によるのではありません。
29 神様はこの方法で、ユダヤ人だけをお救いになるのでしょうか。
いいえ、それ以外の外国人も、同じようにして神様のもとに行くことができます。
30 神様はすべての人を全く平等に取り扱われます。ユダヤ人であろうと外国人であろうと、人はみな、信仰があれば無罪とされるのです。”

 使徒16:31
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(2017)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私をもイエス様を信じることが出来るようにしてくださいましたことを感謝します。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月 7日 (日)

祈りについて(稚拙な小論)

 「絶えず祈りなさい」(1テサロニケ5:17・2017)、
「たゆみなく祈りなさい」(コロサイ4:2・2017)、
「ひたすら祈りなさい」(ローマ12:12・2017)
という聖句がありますが、そんなことは無理だ、と思いますよね。
ごく一部の人を除いては。

 祈りとは、「人の魂と神との会話」と述べた人がいましたが、聖書を読んでいると、人の魂と神との会話、というだけではなく、人の霊と神との会話、という場合もあります。会話は、交わりです。

 マリアの賛歌(マグニフィカト)の冒頭は、
わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(ルカ1:46.47・新共同訳)とあり、マリアは、魂でも霊でも主を賛美したのです。
 少し脱線しますが、
「喜びたたえます」と訳されている語の原語は、“ἀγαλλιάω”で、正確には、“to jump for joy”とStrong辞書にあります。
フランシスコ会訳は、「喜び躍ります」と訳しています。

 私たちの内側で、すなわち魂、更にはその内側にある霊で主と会話することを増やすことは出来そうですね。
何かを心配していたら、心配している代わりに祈る、
思い煩っていたら、思い煩う代わりに祈る、
景色を見てきれいであったら、主を賛美する、
あのこと、このことをおしゃべりする、
この様に書くと、不謹慎に思われるかもしれませんが、主はとこしえに変わらないお方です。
主イエス様が地上におられたとき、弟子たちは一緒に生活していました。
ペテロなどは、イエス様とよくおしゃべりしたのではないかと思います。
 今の時代も同じです。
主イエス様は共にいてくださるのです。

 イエス様は、友として接してくださる時もあれば、主人として接してくださる時もあるでしょう。 
御父や主イエス様を礼拝する場合には、少し様子が異なりますが。
礼拝のときには、礼拝のときの様に。

 祈りは、人と神との会話、ということであれば、当然、神様も語って来られるのです。
神様は、聖書の中の御言葉、あるいは御言葉が意味している内容の中の事柄を語って来られることがほとんどであると思います。
(それ以外の場合には、悪しき霊から、ということもあります)
神様が語ってくださることを聞くことも会話であり、主との交わりです。

 聖書をよく読み、聖句が心に蓄えられている人には、神様も語りかけ易いのではないかと思います。
聖句を暗記していなくても、聖霊は折に触れて思い起こさせてくださる、ということもあるでしょう。

 祈りの基本形として、主は、いわゆる「主の祈り」を教えてくださいました。
「9 ・・・。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように〔御名があがめられますように(第三版)〕。
10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
13 私たちを試みにあわせないで、悪〔悪しき者(口語訳)〕からお救いください。』」(マタイ6章・2017)と。
最古の写本には欠けているそうですが、13節の後に、「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」と加えて祈られる場合が多いと思います。

 9節は、主への賛美の祈りです。
10節aは、神の摂理が成就するようにとの祈りです。(神のみ旨が成就するようにとの嘆願であり、私たちの待望の祈りでもあります)
10節bは、神の摂理の成就と共に、私たち神の子どもとされた者たちが、神の子どもとしてふさわしく整えられた歩みをすることが出来るようにという私たちの願いの祈りでもあります。
神様は、神の子どもたちを、神の御性質にあずかる者とさせたいと思っておられるのですから。
11節は、私たちの必要を祈る祈りです。
12節は、罪の告白の祈り、赦しの宣言の祈りです。
13節は、私たちの守りための祈りです。

 また聖書の中には、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。」(エペソ5:20・2017)とあります。
1テサロニケ5:18には、「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(2017)と記されています。
 私が愛犬を失って非常に悲しい
気持ちでいたときに、主は、「その愛犬を与えた主に感謝しなさい」と教えてくださったのです。
「天のお父様。とても素晴らしい、愛する相棒のような犬を与えてくださいましたあなたに感謝し、あなたを賛美します。」というような意の内容の祈りを幾度かささげました。
主が教えてくださったので、上記の様に実行してみたところ、悲しみよりも主への感謝と賛美が勝ったのでした。
これは愛する人を失った時も使えるな、と思いました。
ただ残念なことに幾人かに証したのですが、どうも受け入れてもらえないようでした。
このあかしを書いたのは、自分にとって極めて大切なものを失った時でさえ、主に感謝することができる、ということを分かって頂くためです。
私は、肉体の健康を失いました。それ故、このブログを書く機会を与えられたのです。肉体が健康であった時にはとても忙しかったのです。
本当に、主は良くしてくださるお方です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
ローマ8:28に「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」(口語訳)とありますが、あなたは、そのようなお方ですから御名を賛美し、感謝します。
日々あなたをほめたたえ、あなたに感謝し、あなたを愛し、あなたに従い続けて歩む者であらせてください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月 6日 (土)

進化論と創造論

 私は、私が触れた宗教書の中で聖書が一番嫌いでした。
(50年近く前の話です)
嫌った理由は、主権が神にあることを読んだからです。

 イエス様の救いにあずかる前の私の思考は支離滅裂でした。
聖書を読んでみようと思って読んだときの最初の感想は、創世記1:1の、“はじめに神は天と地とを創造された。”(口語訳)と書いてあるのを読んで、何をばかなことを言っているのだろう、という思いでした。

 その当時の私は、学校教育での進化論をすっかり信じ切っていたのです。
中学、高校のみならず大学でも進化論を学んだからです。

 私がイエス様を信じたのは、結婚後のことです。
妻との会話の中で、妻が、「創造論というのもあるんじゃないの」と語ったことが、事の発端でした。
「事」というのは、真理を探究し始めたことです。
妻は、幼少の頃から母親に連れられて教会に行っていたのです。
しかし、彼女も大学まで、進化論を学んだのです。
進化論ではなく、創造論を信じている彼女の間違いを、私は論破しようと思い、進化論の書物を手当たり次第に読んでいきました。
その結果、私の勢いは段々と下降していきました。
論じ合って屈服させることは出来そうにないことが分かったからです。

 ある日の朝、私は、庭の朝顔を見ていました。
その時、次のような声がしたように思えたのです。
その声が、神であったのか、自分の脳からのものであったのか、証明は出来ませんが、その時、直感的に、神様に語られたような気がしたのです。
その内容は、
「その朝顔をそっくり絵にかくことができるか?」
実は、私は絵も字も下手なのです。
「朝顔の造花をつくることができるか?」
私は、そのようなことは苦手なのです。とても出来ない相談です。
「あなたに朝顔の種を構成している原子を与えたら、あなたは朝顔の種を作れるか?」
三つの質問に、すべて、「いいえ、できません。」と答えなければなりませんでした。

 そんなこともできないのに、あなたは何を考えているのか?
と言われた気がしました。

 このやり取りで、私は進化論を探究することを止めたのです。

進化論を信じている人は、進化論を信じる信仰によっているのです。
創造論を信じる人も、創造論を信じる信仰によっているのです。
それが私の結論となりました。

 私は、現在も、論理的に完全に進化論を論破することは出来ません。
状況証拠を羅列して、進化論は間違っているのではないだろうか、としか言えません。

 しかし、キリスト様が地上に再臨された後には、進化論は葬り去られます。
イエス・キリスト様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と語られたお方です。
イエス様ご自身が真理であられ、真理を語られたのです。
イエス様は、幾つかの別名を持っておられます。
その中には、「神のことば」という名があります。

 パウロは、“天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。”(コロサイ1:16・新共同訳)と記しました。
「見えないもの」というのは、この文が書かれた時代を考慮すると、肉眼では見ることの出来ない分子や原子、素粒子、等も含まれるでしょうが、天使を含んでいる言葉であると思います。

 さて、聖書を信じるのか、聖書を否定して、それ以外のものを信じるのか、
それは、信じる人の自由意思に基づいたところの決定に任されています。

 私は聖書を信じます。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
聖書を信じることを得させてくださいましたことを感謝します。
慈しみ深いあなたの御名を賛美し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月 5日 (金)

「愛」って何だろう? 神の愛とは

 私は、あまり深く考えることもなく、「愛」という語を用いてきました。
「愛」という概念について、ギリシア語には、いくつかの種類があることは知っていましたが。
それは多くのキリスト者も同じであろうと思います。そこで愛について短く纏められている文章を探してみました。

 愛について、コトバンクの中の、日本大百科全書の「愛」の解説(解説者:伊藤勝彦氏)を引用させて頂くと次のように記されています。

 “愛は文学、道徳、哲学、宗教いずれの観点からいっても、もっとも根本的な観念の一つである。
 とりわけ、キリスト教の文化圏ではこの観念をめぐって思想が展開していった。
 東洋にも、「仁」とか「慈悲」という思想がある。孔子(こうし)(孔丘(こうきゅう))の「孝悌(こうてい)は仁の根本である」ということばからもわかるように、仁は親子兄弟という血縁に根ざす親愛感に発するもので、この感情を無縁の人にまで広げていくことが仁道である。
 孟子(もうし)(孟軻(もうか))は「惻隠(そくいん)の心は仁の端(はじめ)なり」(『孟子』公孫丑(こうそんちゅう)・第29)と説き、人を慈しみ、哀れむ同情の心から愛への展開を論じている。墨子(ぼくし)(墨翟(ぼくてき))は「天下互いに兼愛すべし」(『墨子』兼愛篇(へん))と主張し、親族と他人を区別しない平等の愛を唱えた。仏教でいう「慈」は真実の友情で、「悲」は哀れみ、優しさを意味する。両者はほとんど同じ心情をさしており、中国や日本では、慈悲という合成語で一つの観念として表される。
 親鸞(しんらん)は仏の広大無辺な慈悲を太陽の光に例え、人間を超えて一木一草に至るまで仏の大慈大悲に浴するものとみなした。作家伊藤整(せい)によれば、「他者を自己とまったく同じには愛しえないがゆえに、憐(あわ)れみの気持ちをもって他者をいたわり、他者に対して本来自己がいだく冷酷さを緩和する」というのが東洋的な知恵のあり方で、この考えから、孔子の「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という教えが出てくるのだという。他人を自分と同じに愛することの不可能が自明の前提になっていて、そこから相互に相手を哀れみ、いたわりあう愛が生まれてきたというわけである。
 キリスト教はこの不可能に挑戦し、「己のごとく汝(なんじ)の隣人を愛すべし」と命じる。イエス・キリストは十字架の死によって、真の愛は自己を犠牲にしなければ達成することができないことを自ら示した。そういう絶対の愛が原型として考えられていたからこそ、常人には不可能と思われる厳しい生き方が命じられたのであろう。
 ギリシア語では愛は、エロスerōsとアガペーagapēとピリア〔フィリア(筆者挿入)〕philiaという三つの語によって示される。
これらは、愛にとって本質的な三つの位相をそれぞれ指示しているように思われる。
エロスは情愛に根ざす情熱的な愛で、哲学者プラトンの『パイドロス』でいわれるように、しばしば狂気の姿をみせ、究極的には一者と合一し、真実在に溶け込むことを求めている。地上において肉体的生存を続けている限り、神的なものとの一体化を実現することはできないから、忘我恍惚(こうこつ)を求め続けていけば、エロスは必然的に死と結び付く。エロスの哲学者プラトンが生涯、真実在との出会いを求め続けたあげく、「生より死が望ましい」という一見奇怪な結論に達したのは、その意味では当然の成り行きであった。
 キリスト教的なアガペーの愛は、こういうエロスの愛と根本的に相違する。神と人間との間には、哲学者キルケゴールが「無限の質的差異」と名づけたものが介在する。だから神と人間との融合も、実体的合一もおこりえない。ただあるのは、神と人との交わりである。神と人とは絶対の深淵(しんえん)によって隔てられていながら、どうして交わることができるのであろうか。そこにこそ、イエスの真の存在意義が認められる。イエス・キリストはいわば、神と人間との仲保者であった。神の子イエスがこの地上に人間の肉において生まれたということが、いわば神の愛の唯一の証(あかし)である。「われわれはイエス・キリストによってのみ神を知る。この仲保者がないならば、神とのあらゆる交わりは断ち切られる」(パンセ)。そういうアガペーの愛にあっては、自我の神に向かう高まりも、熱狂的解体もない。神と人との間の交わりが可能となるためには、二つの主体が向かい合って存在しなければならない。同様に、人と人とが向かい合って存在することによってのみ、隣人としての愛の交わりも可能となるのである。
 ピリア〔フィリア(筆者挿入)〕の愛も、相互に独立な理性的存在者の間に成り立つ友愛である。哲学者アリストテレスによれば、人は「自分自身と同じ考えをもち、同じ事柄を望む人」や「自分自身とともに悲しみ、ともに喜ぶ人」を愛するという。つまり、親が子を愛するように、自分自身と等しい者を愛するということで、ピリアの愛は結局、利己愛に帰着する。
 利己愛に堕さないようにするためには、志を同じくしない者でも、あるいは愚者や悪人をも愛さなければならない。それには、ピリア〔フィリア(筆者挿入)〕の愛がアガペーにまで高まる必要があるだろう。だが、神ならぬ身で人類すべてを平等に愛することができるはずがなく、それを実践していると自称すれば、たちまち偽善に陥る。けっして偽善に陥ることのない愛は、自己愛的なエロスのみで、ピリア〔フィリア(筆者挿入)〕は、エロス的要素を失う度合いに応じて、虚偽の愛に陥りがちとなる。こうしてピリア〔フィリア(筆者挿入)〕の愛は、アガペーとエロスの両極の間を揺れ動くことになる。”と伊藤勝彦氏はまとめています。
(上記の文章に対して、色々なご意見があろうとは思いますが、これはこれまでとさせて頂きます。)

 神の愛に関して記されている聖句は数多くありますが、その内のいくつかを下記します。

 “神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世〔世の人(筆者挿入)〕を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”(ヨハネ3:16・2017)

 “6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。
10 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
11 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。”(ローマ5章・2017)

 “この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。”(1ヨハネ2:2・2017)

 “9 神様は、かけがえのないひとり息子を、この不正な世に遣わし、その方の死によって、私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。そのようにして、どんなに私たちを愛しておられるかを、証明されたのです。10 この神様の行為によって、私たちは、何がほんとうの愛か、知ることができました。真の愛とは、神様に対する私たちの愛ではなく、私たちに対する神様の愛なのです。それは、私たちの罪を責める自らの怒りをなだめるために、神様がひとり息子を差し出された愛に尽きるのです。”(1ヨハネ4章・リビングバイブル旧版)

 神様は、愛なる神ですが、義なる神でもあります。
神様は、義という御性質を捨てて、愛の御性質だけをあらわすということは出来ないお方です。
神様の御性質の中には、愛と義は同居しているのです。
 エゼキエル18章には、次のような記述があります。
“23 わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか──である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。30 ・・・、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、それぞれその生き方にしたがってさばく──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。立ち返り、あなたがたのすべての背きから身を翻せ。不義に引き込まれることがないようにせよ。31 あなたがたが行ったすべての背きを、あなたがたの中から放り出せ。このようにして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。だから立ち返って、生きよ。”(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。 
あなたの御名を崇め賛美します。
御父の愛、御子イエス様の愛について、私が説明すると陳腐なものに堕してしまいますので、上記の聖書の御言葉を聖霊様が語ってくださいますように。
あなたの御性質が、義のみで、あなたの御性質に愛がなかったとしたら、私達人類はすべて地獄に放り込まれたことでしょう。
イエス・キリスト様が、私たちすべての人々の罪を身代わりに負って、十字架の上で、神様の裁きを受けてくださった故に、そしてイエス様がよみがえられた故に、イエス様を信じる私たちは、罪赦されただけではなく義とされておりますから感謝します。
愛なる御父と御子の御名に感謝し、御名をほめたたえます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名によって、アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたがたの救われたのは、実に、恵み〔キリストの十字架と復活(筆者挿入)〕により、信仰〔イエス・キリストを信じる信仰(筆者挿入)〕によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物〔ギフト(筆者挿入)〕である。”(エペソ2:8・口語訳) 

2021年11月 4日 (木)

ヤハウェ(主)は義なる神(正しい神)なのか、そうではないのか?

 ヤハウェ(主)は、正しい神なのでしょうか?
ヤハウェ(主)ご自身の証言をイザヤ45:18-24は次のように記しています。
“18 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方、まことに、この主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が言われる
「わたしは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。ほかにはいない。
19 わたしは隠れたところ、闇の地の場所で、語らなかった。茫漠としたところで、ヤコブの子孫に『わたしを尋ね求めよ』とは言わなかった。
わたしは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。正義を語り、公正を告げる者
20 諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、ともに近づけ。彼らは自分たちの木の偶像を担ぐ者、救えもしない神に祈る者たちで、知識がない。
21 告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。
22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。
23 わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い、24 わたしについて、『ただ主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕にだけ、正義と力がある』と言う。主に向かっていきり立つ者はみな、主のもとに来て恥を見る。”(2017)とあります。

 以上のようにヤハウェ(主)というお名前の神(永遠にして自存の神)、そして創造主(18)であられるお方が、わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない(21)。と語っておられるのです。

 イエス・キリスト様は、十字架に向かわれる前に、父なる神に祈っています。その祈りの中で、イエス様は、
正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。」(ヨハネ17:25・2017)と言っておられます。

 上記のイエス様の御言葉の中に、「正しい父よ」という言葉と共に「この世はあなたを知りません」とあります。

 現代人に限りませんが、自分を神とし、ヤハウェ(主)を神としない人たちにあっては、ヤハウェ(主)を義なるお方(正しいお方)とは考えていません。
現代においては、ヤハウェ(主)が罪としたことを、正しいとして、成文化している事柄もあるのです。

 ヤハウェ(主)は、何が罪なのかということを聖書で明らかにしました。
ヤハウェ(主)の仰せを斥ける者たちや、ヤハウェ(主)を認めない者たちに対するヤハウェ(主)の対処は次のようなものです。
ローマ人への手紙1章は次のように記しています。
“18 ・・、不義によって真理を阻(はば)んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
19 神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。
20 神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。
21 彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。
22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
24 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。
造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27 同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。
28 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。
29 彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、30 人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、31 浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。
32 彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。”(2017)とあります。

 ヤハウェ(主)の仰せを斥ける者たちや、ヤハウェ(主)を認めない者たちに対するヤハウェ(主)の対処は、
➀その心の欲望のままに汚れに引き渡した(24)
➁無価値な思いに引き渡した(28)
とあります。

 ヤハウェ(主)というお名前の神、すなわち、父、子、聖霊なる神の御名(マタイ28:19)を知らない人たちや、認めない人達は、いくらでも反論を繰り広げることでしょう。

 私にとっては、イエス様の御言葉だけで十分です。
イエス様は語られました。
「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。」(マタイ5:18・2017)、
「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24:35・2017)、
「律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。」(ルカ16:17・2017)、
「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(ルカ21:33・2017)
と記されています。
ルカ21:33の文語訳は、「天地は過ぎゆかん、されど我が言(ことば)は過ぎゆくことなし。」とあります。
いい響きですね。

 ローマ6:23には、「罪の報酬は死です」(2017)と記され、
エゼキエル18:4には、「すべてのたましいは、わたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ。」(2017)というヤハウェ(主)の御言葉が記されています。

 ヤハウェ(主)は、罪を罰せられますが、罪を罰せられるべき者の身代わりをも受け入れることをなさいました。
その予型が、罪のためのいけにえ(罪のきよめのささげ物or罪祭)であり(レビ記4章)、その本体が、十字架につけられたイエス・キリスト様であったのです。
ガラテヤ3:13には、“キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。”(2017)と記されています。

 キリスト者とは、イエス・キリスト様を信じたことの故に神の裁きを受けずに済むようになった者たちです。
ヨハネ3:18には、「御子を信じる者はさばかれない。」(2017)と記され、
ヨハネ3:36には、「御子を信じる者は永遠のいのちを持っている」(2017)と記され、
ヨハネ3:16には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
義なるお方にして、慈しみ深いあなたの御名をほめたたえます。
救い主イエス・キリスト様に感謝します。
あなたの律法の御言葉は、新天新地をあなたが創造なさるまで変わることのないものであることを教えてくださっておられますから感謝します。
あなたは聖なるお方、義なるお方であると共に慈しみ深いお方ですから御名を賛美します。
御父とイエス様の上に栄光と誉れと賛美と力とが代々限りなくありますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月 3日 (水)

主と共に歩む

 弟子の一人がイエス様に、神殿をほめそやした場面があります。
マルコ13:1.2に次のように記されています。
“1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」”(2017)とあります。

 この情景は、今から約2000年弱前の出来事です。
そしてイエス様一行は、宮から出て宮の東側にあるオリーブ山に行ったようです。
オリーブ山からは、宮をはじめエルサレム一体がよく見えます。

 イエス様がオリーブ山で宮に向かって座っているときに、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに、宮がひどく崩れ去るようなときがいつ来るのかをイエス様に尋ねたのです(マルコ13:3.4)。

 この時、「あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。」という質問もしたようです(マタイ24:3)。

 イエス様は、質問に対して、
「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。
また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
あちこちで飢饉と地震が起こります。
しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。」(マタイ24:4-8・2017)と答えました。

 「これらはすべて産みの苦しみの始まり」とありますが、何が生み出されるのでしょうか?
私たちは、「御国が来ますように」と祈っていますが、主キリスト・イエス様が王の王、主の主として支配なさる御国、キリストの千年王国が生み出される前兆なのです。

 世界各地で起こる民族間の争い、国と国の戦争、異常気象や昆虫の害及び人口増加や戦争による農地の荒廃などの結果もたらされている飢饉、20世紀以降多発してきた大地震は、すべて産みの苦しみの始まりなのです、とイエス様は語られたのではないでしょうか。

 更に加えてイエス様は、
「また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」(マタイ24:11.12・2014)とも語られました。

 ルカは、マタイとは異なり、「疫病」についてもイエス様が語られたということで、「大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」(ルカ21:11・2017)と記しています。

 黙示録を読むと、現在はやっているコロナ感染症の比ではない疫病に見舞われるのではないかということも予想されます。
剣と飢饉と死病と地の獣によって地上の1/4の人が死ぬことになるらしいのです(黙示録6:8)。

 私は、黙示録6章の預言よりも前にキリストの空中再臨があり、携挙が起こって、主の現れを待ち望んでいる人たち(ヘブル9:28参照)は、天に引き上げられると推測しています。とは言え、生みの苦しみの出来事を見、黙示録に預言されている事象が迫ってきていることを予想しながら日々を過ごしています。

 世界情勢は上記のような状態ではありますが、キリスト者個人としては、「日々、主イエス様と共に歩む」ということが、何時の時代にも、そして今も、大切なことであると考えています。

 創世記5:24には、「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(新共同訳)とあります。
エノクは、死を体験することなく天に引き上げられました。
ヘブル11:5には、「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」(新共同訳)と記されています。
預言者エリヤも死を体験することなく天に引き上げられました(2列王記2:1.11)。

 キリストの空中再臨の時、霊を新生されているキリスト者は、肉体の死を経験することなく、神のラッパの響きとともに一瞬にして霊の体に変えられて(1テサロニケ4:16、1コリント15:52)、天に引き上げられるのです(1テサロニケ4:17)。
信じようと努力しなくても信じることの出来る人は幸いです。「あなたの信じたとおりになるように。」(マタイ8:13他・新改訳)とイエス様はよく言われました。
 クリスチャンと呼ばれる人の中でも、携挙を信じない人がいます。ヘブル11:5には、エノクについて、「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。」とあります。その時が来れば分かることですけれども、キリストの空中再臨の時の携挙を信じない人の取り扱いについて神様はどうなさるのでしょう。神は全能です。肉の体を霊の体に一瞬の内に変えて天に携え挙げることなど神様にとってはたいしたことではないのだろうと思うのです。

 大切なことは、日々or一瞬一瞬、主と共に歩むことです。
地上で、主と共にある人は、キリストの空中再臨前に、地上の肉体が使い物にならなくなり、脱ぎ捨てねばならない場合でも、その人の霊は、いつも主と共にあるのです。1コリント6:17に、“主に結び付く者は主と一つの霊となるのです”(新共同訳)と記されているように。これは霊における結婚です。

 A.B.Simpsonの詩に次のようなものがあります。
“主と共に歩むその楽しさよ
エノクの如くに我をも上に 移させたもうまで 日々主と歩まん
ひと足、一足、主にすがりて、絶えず絶えず我は進まん”(抜粋)

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたの恵みによって、日々主と歩み続ける生涯を送らせてください。
天において主イエス様とあなた様の御顔を拝する時を待ち望みつつ
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月 2日 (火)

マタイ6:9 御名が聖なるものとされますように

 マタイ6:9を
 2017は、
 「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。 御名が聖なるものとされますように』」と訳し、
 聖書協会共同訳は、
 「だから、こう祈りなさい。
『天におられる私たちの父よ 御名が聖とされますように。』」と訳しています。

 「御名が聖とされますように」という箇所を、今までの日本語訳聖書は、
御名があがめられますように」(口語訳、第三版)
御名が崇められますように」(新共同訳)
あなたの名が聖なるものとされますように」(岩波訳)
御名の崇められん事を」(文語訳)
と訳していました。
これらのすべての訳は言語学的には正しいのです。

 天において、父なる神様はどのように賛美されていたのでしょうか?
イザヤ6:1-3には次のように記されています。
“1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、
2 セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、
3 互いにこう呼び交わしていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕。その栄光は全地に満ちる。」”(2017)とあります。
これはイザヤが見せて頂いたものでした。
「聖なる、聖なる、聖なる」のヘブライ語聖書は、「カードーシュ、カードーシュ、カードーシュ」です。

 使徒ヨハネも似たような情景を見させて頂いています。
黙示録4:6b-8には次のように記されています。
“6 ・・・。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。
7 第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった。
8 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」”(2017)とあります。

 ヤハウェ(主)ご自身が、ご自分を「私は聖である」と語っておられます。
レビ11:44.45には次のように記されています。
わたしはあなたがたの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。あなたがたは、地の上を這ういかなる群がるものによっても、自分自身を汚してはならない。わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」(2017)とあります。

 人に対して「聖なる者」となれ、と言われるときには、神へときよめ分かたれた(分離された)者となれ、ということです。

 「聖」のヘブライ語原語は、「カードーシュ」or「コーデシュ」です(母音記号の付き方の違いで読み方が変わります)。
聖書辞典は、“きよい 聖い,清い 「聖」を表す〈ヘ〉コーデシュの原意は「分離」であり,「聖」とは,ある二者の間に分離がある状態を指している。聖が神の属性として用いられる時,神がすべての被造物から隔絶していること,悪や罪からも全く分離していることを指す。聖はまた神の栄光(レビ10:3)や正義とさばき(詩篇99:3‐4)と関係づけて用いられている。”と述べています。

 レビ10:3には、
モーセはアロンに言った。「主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕がお告げになったことはこうだ。
『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、
民全体に向けて わたしは自分の栄光を現す。』」 ”(2017)と記され、
 詩篇99:1-5には、
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は王である。国々の民は恐れおののけ。ケルビムの上に座しておられる方に。地よ震えよ。
2 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕はシオンにおられる大いなる方。主はすべての国々の民の上に高くいます。
3 大いなる恐れ多い御名をほめたたえよ〔彼らが偉大な畏るべきあなたの名をほめたたえるように(聖書協会共同訳)〕。主は聖なる方。
4 王は力をもってさばきを愛する。あなたは公正を堅く立てさばきと正義をヤコブの中で行われた。
5 われらの神主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖なる方。”(2017)と記されています。

 キリスト者が「聖徒」(1コリント1:2)と呼ばれるのは、神のためにきよめ分かたれた者であるからです。それ故「聖なる者」、とも言われます(1コリント1:2)。それは、キリストの故です。
1コリント1:30に、“あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。”(2017)とあるように、キリストが私たちの聖となってくださったからです。

 本題に移ります。
ヤハウェ(主)なる神は「聖なるお方」です。
ヤハウェ(主)は、自存にして永遠のお方であり、神以外のすべてもののをつくられたお方、即ち創造者です。
宇宙に存在する見えるすべてのものは、ヤハウェ(主)なる神の作品です。
また、見えない存在、霊的な存在もあれば、人間の目には見えない物質的なもの、例えば素粒子なども皆ヤハウェ(主)なる神の作品です。
主なる神は、被造物とは隔絶しているのです。即ち聖なるお方なのです。

 聖なるお方が、聖なるお方として崇められることこそ、調和のものとです。
ヤハウェ(主)は、王の王、主の主です。
ヤハウェ(主)を、すべての被造物が、聖なるお方であると心から認め、へりくだり、ひれ伏したときに、本当の平和は訪れます。
それはやがて来ますから感謝です。
 ピリピ2章には、
イエスの名によって、
天にあるもの、地にあるもの、
地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が
「イエス・キリストは主です」と告白して、
父なる神に栄光を帰する
”(10.11抜粋・2017)時が来ることを告げています。
ハレルヤ

<お祈り>
天のお父様。
あなたの聖なる御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われているように、地でも行われますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年11月 1日 (月)

ヤハウェ(主)なる神様は変わることのないお方

 旧約の神は怖い神、厳しい神と思っている人々もいますが、旧約の神も新約の神も同じ神です。
私が初めて旧約聖書を読んだとき、聖書の神は厳しく、自分中心の怖い神だと、私は感じたのです。

物事を考える主体は人間である自分自身です。ですから、自分の状態に影響されます。
多くの人は、考えや感情や意志がくるくる変わりますから、神様も同様であると考える人がいても不思議ではありません。
それで、旧約聖書を読んでいると、旧約の神は怖い神で、新約の神であるイエス様は優しい神様だ、と捉えるのかも知れません。
信仰を持ちたての頃の私はそのようでした。

マタイ28:19に、「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」というイエス様の御言葉があります。
「父、子、聖霊の名において」と記されている元のギリシア語聖書の単数、複数を知るには英訳聖書を見ると分かり易いです。
NKJVには、“in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit”と訳されています。
父と子と聖霊の名、の名は、複数ではなく単数です。ですから、神は三位一体なのです。
本質が同じであるのです。

 神様は、人を祝福しようとして、ある時は、厳しく接し、ある時は優しく接する、ということをなさるのです。
イエス様でも、人にきびしく接している箇所があります。

 次に聖句を見ていきます。
 マラキ3:6.7には、
“まことに、主であるわたしは変わることがない
あなたたちヤコブの子らにも終わりはない。
あなたたちは先祖の時代からわたしの掟を離れ、それを守らなかった。
立ち帰れ、わたしに。
そうすれば、わたしもあなたたちに立ち帰ると
万軍の主は言われる。”(抜粋・新共同訳)と記されています。

 2テモテ2:13には、
“私たちが真実でなくても、
キリストは常に真実である。
ご自分を否むことができないからである。”(2017)と記されています。

神様が変わらないお方だからこそ、神様が語られた御言葉に信頼することができるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたの正しさは変わることなく、あなたの愛は変わることがありません。
それだからこそ安心してあなたに信頼することができます。
あなたの御言葉に信頼することができます。
今や私たちは、あなたの愛に包まれて日々を過ごさせて頂けますことを感謝します。
変わることのないあなたの御言葉を与えられて地上生涯を送ることを得させて頂けることを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・
(マタイ5:18)「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」(2017)
(ルカ16:17)「・・、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。」(2017)
(マタイ24:35)「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(2017)

2021年10月31日 (日)

全能の神

 創世記17:1には、
さて、アブラムが九十九歳のとき、主はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」”(2017)と記されています。

 ヤハウェ(主)ご自身が、「アニー エル シャダイ」(私は 神 全能)と言われたのです。ヘブライ語には、名詞文というのがあるので、訳すときには、「私は全能の神である」となります。

 「全能の神」と聞くと、何でもできる神、と考えてしましますが、そうではありません。少しの例を下記します。

①神は偽ることができない
 ヘブル6:18をリビングバイブルは、「神は、約束と誓いの両方を与えてくださいました。神は偽りを言われることがありませんそのため、救いを求めて神のもとに逃れて来る人たちは、確かな保証を頂いて、新たな勇気を奮い起こすことができます。そして、神の救いの約束を、少しの疑いもなく確信できるのです。」と意訳しています。

 1コリント1:9には、「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」(新共同訳)と記され、
 2テモテ2:13には、「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることができないのである。」(口語訳)と記されています。

➁神は人を悪へと誘惑することができない
 ヤコブ1:13には、「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。」(2017)と記されています。

 その他、神様は、神様の御性質に反することは出来ないのです。

ルカ1:37には、「神にとって不可能なことは何もありません。」(2017)という天使ガブリエルの言葉がありますが、この箇所の直訳は、文語訳の、「神の言(ことば)には能はぬ所なし」という訳が近いのです。
ルカ1:37の「ことば」のギリシア語の原語は、「レーマ」で、神が語られたことばの意でしょう。
更にギリシア語聖書には、「パス」(すべて)の語が入っていて、37節は、「神が語られたすべての言葉に不可能はない」となると思います。
神が、語られていない事柄も、神は出来る、とは言っていないのです。

 いずれにしても天地創造前から存在していた天使ガブリエル(ヨブ38:7参考)は、長きに亘って、ヤハウェ(主)の御言葉の力を見てきたのです。

 結論として、神様は、ご自身の御性質に基づき、み旨に叶うすべてのことがお出来になるということでしょう。
「全能の神」とは、「神のみ旨に従い、神ご自身が行いたいと思うことのすべてを行うことの出来る神である。」ということを言っているのであろうと思います。

このことを考えるとき、私は、祈りに思いが行きます。

イエス様は、「13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14章・新共同訳)と語られました。

「名によって」のギリシア語原語は、「エン トー オノマティ」と記されています。英語では、“in the name”となります。
「名」は、その方(or人)をあらわします。この聖句の中の「私の名の中で」というのは、キリストのみ旨の中での意になるのではないかと思います。
使徒ヨハネは、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。」(1ヨハネ5:14・新共同訳)とも記しています。

 キリストの御名を使えば、祈りがきかれる、というのではなく、御心にかなう祈りをすれば、祈りは聞かれる、ということでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたは全能の神です。
あなたの御名をほめたたえます。
あなたのみ旨にかなう祈りをささげる者であらせてください。
私たちが祈りを献げるとき、天地万物を創造された全能の神である御父に祈りをささげているということを、いつも忘れずにいることができますように。
あなたのみ旨を把握する能力を増し加えてください。
また、あなたの御約束は、全能の神であられるあなたの御約束であるということを決して忘れることがありませんように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年10月30日 (土)

神様は何でも知っておられるのだろうか(全知の神)3

 果たして神様はすべての人を見ておられるのでしょうか?

箴言15:3には、「主の目はどこにもあり、悪人と善人を見張っている。」(2017)と記されています。
この聖句をリビングバイブルは、「主はあらゆる所で、悪人も正しい人も一人残らず見張っておられます。」と訳しています。

エレミヤ23:23.24には、「わたしは近くにいれば、神なのか。──主のことば──遠くにいれば、神ではないのか。 人が隠れ場に身を隠したら、
わたしはその人を見ることができないのか。──主のことば──天にも地にも、わたしは満ちているではないか。──主のことば。」(2017)と記されています。
この聖句をリビングバイブルは、「わたしはどこか一つの場所にだけにいて、彼のしていることが見えないような神だろうか。人はわたしから姿を隠せるだろうか。わたしは、天にも地にも、どこにでもいるではないか。」と訳しています。

 神様は、すべての人を見ているのです。
そして、裁きの時には、イエス様が裁きをなさるのです。
ヨハネ5章に次のように記されています。
“22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子〔ダニエル7:13.14参照(筆者挿入)〕だからである。
28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」”(新共同訳)とあります。

 神様は、私たちの心の中まで全部知っているのでしょうか?
神様は、私たちの心の思いを知っているばかりではなく、私たちが未来においてどのように考えるのか、ということまで知っています。
詩篇139篇には次のように記されています。
“1 主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ あなたは私を探り 知っておられます。
2 あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。
3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。
4 ことばが私の舌にのぼる前に なんと主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕よ あなたはそのすべてを知っておられます。”(2017)とあります。

特にキリスト者の霊はキリストの霊と一つとされています(1コリント6:17)。
キリスト者の場合には、内奥からすべてキリスト・イエス様に知られているのです。

神様は、見える世界のものも、見えない世界のものも、全部知っておられます。
何しろ、神様が造られたのですから。
素粒子を発見してノーベル賞をもらった人がいますが、それを造ったのは神様です。
ニュートンは万有引力を発見しましたが、それを規定したのは神様です。
卵が先か鶏が先かという議論がありますが、神様は初めに鶏を造ったのです。
おそらく御父のご計画に基づいて御子イエス様が造られたのでしょう。
コロサイ1:16をリビングバイブルは次のように訳しています。
“事実、キリストはすべてのものの創造者なのです。天にあるものも地にあるものも、目に見えるものも見えないものも、霊の世界の王座も主権も支配も権威もすべて、この方がご自分の目的と栄光のために造られたのです。”と記されています。

どうやらヤハウェ(主)という神様は、何でも知っているようです。
この神様に、隠し立てすることは出来ません。
何かを隠していたとしても、隠している物が何かまで、知っておられるのです。
ですから神様の前には、ありのまま出ることが大切です。
神様に自分を良く見せようとすることは滑稽なことです。
また神様のみ前で、演技してみせても何にもなりません。すべてお見通しだからです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
何から何までお見通しの上で、こよなく愛してくださりありがとうございます。
人知をはるかに超えたあなたの愛の中で生かされていることを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年10月29日 (金)

神様は何でも知っておられるのだろうか(全知の神)2

 人と神様の知的能力の違い

 マタイ10:30を
2017は、「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。」と訳し、
新共同訳は、「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」と訳しています。

 マタイ10章は、12使徒に対してイエス様が訓話している箇所なので、12使徒の髪の毛はみな数えられているということは確かなことですが、それ以外の人の髪の毛の本数は数えられているのでしょうか。
12使徒以外の人の髪の毛も数えられている可能性があることを、前の節の、「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。」(マタイ10:29・2017)という聖句から12使徒以外の人の髪の毛も数えられているのではないかと思います。

 脱線しますが、
一羽のすずめでさえ、父なる神様の許可なしに地に落ちることはない、という聖句がありますが、ここで私の体験を記します。
今から約13年弱前、私は虚血性心不全で、「助からないでしょう」と担当医に告げられていました。
心臓が弱って、尿がほとんど出ないのです。利尿薬を2種類服用していてもほとんど出ません。注射薬の利尿薬を用いた時だけ、その時だけ尿が出るという状態でした。
しかし、今も生きています。天国に迎え入れることを許可する、という御父の許可が下りなかったのです。
私の脈拍数は80くらいでしたが、昨年は、1分間の心拍数が33になったことがあります。その状態がしばらく続きました。少し立っていると腰砕けのような感じが起こるのです。しかし御父は、相変わらず天国に迎え入れることを許可しませんでした。まだ地上で為すべきことを為しなさい、ということのようです。その後、心拍数は40位となり、家の中での生活は困らないくらいになりました。ペースメーカーは入れていませんが、服薬については、主の一般恩寵として、西洋医学的にも東洋医学的にも必要な薬剤を用いています。それ以上に、家族をはじめ多くの人々に祈られているということの方が、まだ地上にいる理由なのかもしれません。
「生きることはキリスト、死ぬことは益です」(ピリピ1:21)
が。
御父が許可しなければ、この世から脱出することもできないのです。
私の肉体は、死と隣り合わせなのですが、これは私にとっては幸いなことです。
私の肉体は、いつも聖霊によって強められる必要を忘れることができないからです。

 予知能力について
未来を予知できる人に対して、この世の人々は驚嘆します。
もし、この世の予言者が、100の預言をして90くらいでも的中したら、この世の人たちはその予言者を大予言者だと言うでしょう。 
しかし、ヤハウェ(主)は、「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。」(申命記18:22・2017)とモーセに語られたことがありました。
ヤハウェ(主)の預言者は、一つの預言もはずしてはいけないのです。
 ヤハウェ(主)は、未来に起こることを預言者に知らせ続けてきました。聖書に預言の言葉がどれだけあるのか数えたことはありませんが、非常にたくさんあります。
イザヤ46:10前半には、「私は、終わりのことを初めから、まだなされていないことを昔から告げてきた」(聖書協会共同訳)というヤハウェ(主)の御言葉があります。
この箇所をリビングバイブルは、「何が起こるかを教えることができるのは、このわたしだけだ。」と意訳しています。

 私は、創世記1:1で、すぐに聖書に躓いた人です。私に対して、進化論は、サタンの側からすると大いなる成功例であったのです。
しかし、私が、イエス様の救いにあずかる前に、聖書は正しいものらしいと信じることが出来たのは、聖書に記されている預言のおかげでした。
ただし私が、イエス様を個人的に信じることができたのは、神様の直接的関与があったからでした。

 1ペテロ1:2には、「・・、父なる神が予知されたことに従って、霊により聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために選ばれた人たちへ。・・・。」(聖書協会共同訳)と記されています。

 キリスト者とされた人たちは、天地創造の前に選ばれていたと記されています(エペソ1:4)。
予知と選びの関係について、筆者は、1ペテロ1:2の箇所に次のように記しておきました(2013年12月の記事)。
ペテロは、2節でキリスト者と三位一体の神との関係について述べています。
 父なる神は、キリストの救いが提示された時、信じる人が誰であるのかを予知され、選ばれました。そのことに関連する他の書簡のみことばに、「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(エペソ1:3‐5)、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」(ローマ8:29)などを思い浮かべます。私は、神学によってではなく聖書のみことばのみによって書き進めたいと思います。
 子なる神であるイエス・キリスト様との関係については、「イエス・キリストに従い、かつ、その血の注ぎを受けるために」と書かれています。
十字架の上でイエス・キリストの血が流され、キリストの身代わりの死が無ければ、罪の赦しも、罪のきよめもありませんでした。人間はただ絶望したまま神の裁きの前に立つことになったのです。しかし、キリストの血による贖いの故に信じる者は喜びを持って父なる神と御子なるキリストの前に立つことが出来たのです。
 聖霊は、父なる神の予知に従い、キリストが流された血を、キリストを受け入れる人に適用し、聖別して下さったのです。聖別のみならず、心の思いや行いにおいても、「わたしたちが光の中を歩んでいるなら、キリスト者同士は互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪より私たちをきよめ続けるのです。」(1ヨハネ1:7)。聖霊は、キリストの血を用いてこのことを行って下さいます。”と記しました。

 兎に角、人には予知できないことを、神様は予知しておられます。
30年以上前に、私は
次の歌詞の歌をよく歌っていました。
“明日はどんな日か私は知らない
 晴れか、嵐か、曇りになるか
 私は明日を心配しない
 イェスが私を守られるから
 明日は私にはわからないけど
 明日を守られるイェスがおられる”と。
そのように賛美して自分を信仰に立たせ、自分を励ましていたのでしょう。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
あなたはこれから起こることもすでに教えてくださっておられ、その対処方法も教えてくださっておられますことを感謝します。
あなたの御名の中で生かされていることを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・
 御手の中で
 “み手のなかで
 すべてはかわるさんびに
 わがゆくみちを
 みちびきたまえ
 あなたのみ手の中で

 み手のなかで
 すべてはかわるかんしゃに
 わがゆくみちに
 あらわしたまえ
 あなたのみ手のわざを ”

2021年10月28日 (木)

神様は何でも知っておられるのだろうか(全知の神)1

 神様は全知のお方であるという。
私もそのように思いますが、それを証明しきることは私には出来ません。
何故なら、神様は、たとえ全知であったとしても人間には理解しきれないからです。

 1コリント2:11に、「神の霊以外に神のことを知る者はいません。」(聖書協会共同訳)と記されているように、自存にして永遠、かつ創造者であられる神様を、被造物である人間が、「私は神様のことを全部知っています」などとは言えません。

 人は、聖書に啓示されている範囲内において、神様がどの位のことを知っておられるお方であるのかということを、知ることができるのであろうと思います。

 聖書に啓示されている神の知識、予知だけでも驚嘆すべきものであると思います。

 エフェソ(エペソ)1:4には、「天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。・・」(聖書協会共同訳)とあります。
上記の「キリストにあって」と訳されている箇所を、2017は「この方にあって」と訳していますが、直訳すると2017のような訳になります。
「この方にあって」という箇所を、KJVは“in him”と訳しています。

 私は、私自身が0ー2歳の頃のことを思いだそうとしても思い出すことは出来ませんが、神様は、私が存在する前から私の存在をご存知であったのです。それどころか天地創造の前に、既に私のことをご存知であったということです。

 時間軸的には、小さなスケールになりますが、アケメネス朝ペルシア帝国の創立者キュロス(在位年:B.C.559年―B.C.530年)の名前が、イザヤ44:28、45:1に次のように記されています。
“44:28 キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。・・・。45 :1 主が油を注がれた人キュロスについて主はこう言われる。・・・。
”(新共同訳)

 これを預言したイザヤは、ウジヤ王の死んだ年(B.C.742年頃)に召命を受け(イザヤ6:1.9)、その後約50年間預言した人です。
B.C.742年の50年後はB.C.692年になります。この年には、まだキュロスは生まれていませんでした。

 エペソ1:4に関連した聖句の一つに、ローマ8:29.30があります。そこには次のように記されています。
“29 神は前もって知っておられた者たちを、御子のかたち〔あるいは「像」(欄外注)〕に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くのきょうだいの中で長子となられるためです。30 神はあらかじめ定めた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者に栄光をお与えになったのです。”(聖書協会共同訳)とあります。

 ローマ8:29.30の聖句は、人間的には、過去、現在、未来の出来事が包含されていますが、神様は、未来のことも摂理の内に過去形として記させています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を賛美します。
私たちは、あなたにすべてのことを知っていただいている上で、愛され、覚えられていることを感謝します。
あなたの御前においては、常にありのままでいられますから感謝します。
とこしえに愛してくださいますことを感謝し、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年10月27日 (水)

力は神のもの

 詩篇62篇に、
神は一度告げられた。
二度私はそれを聞いた。
力は神のものであることを。”(2017)と記されています。

 詩篇62篇の表題に、ダビデの賛歌、とあります。
ダビデは主なる神様から「力は神のものである」という御言葉を聞いたのです。

 キリスト者は、神の霊から生まれた霊を持っている存在です。というかキリスト者の本体は「霊」です。
ヨハネ3:3.6を、
 新共同訳は、“3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。”と訳し、
 口語訳は、“3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。”と訳しています。

 ペテロは天国に帰る前に、「私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋〔仮の宿(新共同訳)、肉体(筆者挿入)〕を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。」(2ペテロ1:14・2017)と語りました。
 またパウロは、「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。」(2コリント5:1・2017)と語りました。
 リビングバイブルはこの箇所を、「私たちが住んでいる地上の家が取りこわされても、すなわち、私たちが死んでこの肉体を離れても、天には新しい体、永遠に保証された家があります。それは、人の手ではなく、神の手でつくられた家です。」と意訳しています。

以上はキリスト者の本体は「霊」であることの説明です。

 1ヨハネ3:2に「私たちは今すでに神の子どもです。」(2017)と記されているように、キリスト者は神の子どもです。
神から生まれた霊だからです。
それ故、神の御性質にあずかる者とならせて頂ける
のです(2ペテロ1:4)。

 キリスト者が、神の子どもであるとはいっても、神であるヤハウェ(主)が私たちに与えてくださるものは、永遠のいのちと、神の性質です。

 キリスト者には、神の力は与えられていません。
神の子どもであるキリスト者が力を必要とする時は、その力を神から供給されて歩んでいくのです。
イエス様は、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8・2017)と語られました。
キリスト者は、イエス様を信じた時に、聖霊を与えられていますが、その聖霊の働きは、神の子どもとしてふさわしい性質をつくることや、真理を教えること等、すべてのキリスト者にキリスト者として必要なものを与えることですが、御霊の賜物に属するもの〔1コリント12:1-12、28他(筆者挿入)〕は個々人で異なるのです。
{新改訳が「御霊の賜物」と訳した語句を、新共同訳は「霊的な賜物」、口語訳・文語訳は「霊の賜物」、リビングバイブルは「聖霊があなたがたに授けてくださった特別な賜物(贈り物)」と訳しています。}

 人には人の分に応じた力が与えられていますが、キリスト者が神の子どもであるからといって神の力は与えられていないのです。
力は神のものであり、聖霊なる神から、その都度、頂くのです。とはいっても、御旨に叶う事柄の範囲ですが(1ヨハネ5:14参照)。

 その模範を示してくださったのは、神の力を封印して、人となられたイエス・キリスト様です。
ピリピ2章に、“6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。”(2017)と記され、
使徒10:38には、“それは、ナザレのイエスのことです。神はこのイエスに聖霊と力によって油を注がれました。イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。”(2017)と記されています。

 私たちは力の必要なとき、聖霊なる神から力を付与されて歩んで行くのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちは、あなたの御勧めに従って、事ごとに祈りをなし、願いをなし歩んでいきます。
私たちに必要な物を備えてくださるあなたの御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・
「何事をも思ひ煩ふな、ただ事ごとに祈をなし、願をなし、感謝して汝らの求を神に告げよ。」(ピリピ4:6・文語訳)
「かくてわが神は己の富に隨ひ、キリスト・イエスによりて汝らの凡ての窮乏を榮光のうちに補ひ給はん。」(ピリピ4:19・文語訳)

2021年10月26日 (火)

神様はどこにいるのか?

 神様はどこにいるのでしょうか?

 マルコ16:19は、“主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。”(2017)と記していますから、父なる神様も主イエス様も天におられるのでしょう。

 ところが、エレミヤ23:24の聖句を、幾つかの聖書は次のように記しています。
 新改訳2017は、
“人が隠れ場に身を隠したら、
わたしはその人を見ることができないのか。
──主のことば──
天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
──主のことば。”と訳し、

 新共同訳は、
“誰かが隠れ場に身を隠したなら
わたしは彼を見つけられないと言うのかと
主は言われる。
天をも地をも、わたしは満たしているではないかと
主は言われる。”と訳し、

 口語訳は、
“主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。
主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。”と訳し、

 リビングバイブルは、
“人はわたしから姿を隠せるだろうか。
わたしは、天にも地にも、どこにでもいるではないか。”と訳しています。

 エレミヤ23:24の、“主は言われる”(新共同訳、口語訳)、“主のことば”(新改訳)と記されている「主」のヘブライ語原語は、「ヤハウェ」です。
「言われる(仰せられる)」や「ことば」と訳されている語のヘブライ語原語は、「ネウム」で、託宣、言う、仰せられる等の意があります。

 エレミヤ23:24の聖句は、ヤハウェ(主)が、「私はどこにでもいるよ」と語られた内容です。

 ダビデは、エレミヤよりも前に地上にいた人ですが、次のように言っています。
“7 どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。
どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。
9 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも10 あなたはそこにもいまし
御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
11 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
”(詩篇139篇・新共同訳)と。

 イザヤは次のような体験をしました。
“ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち”(イザヤ6:1・2017)と記され、主の裾は地上にある神殿に満ちたのです。

 主の裾が神殿に満ちても不思議なことはありません。
イエス様は次のように語っています。
「わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。」(マタイ5:34.35・2017)と。

 ヤハウェ(主)という神様は、天にも地にも、どこにでもおられるお方です。

 では何故、一部の人しか、その神様とかかわりが持てないのでしょうか?

それは、新約時代においては、イエス・キリスト様を信じないから、というのが答えです。

イエス・キリスト様を信じた人、すなわちイエス・キリスト様を心にお迎えした人に、まことの神様、すなわちヤハウェ(主)という神様は、ご自身をあらわし、交わりを持ってくださるのです。

 イエス様は、イエス様を信じる弟子たちに、次のように語られました。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者〔助け主(新改訳)〕を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。/・・、弁護者〔助け主(新改訳)〕、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:16.17/26・新共同訳)と。

 イエス様は、また次のようにも語られました。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。/だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:21.23)と。

 イエス様は十字架にかかられる前に次のように言われました。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34・2017)と。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様に贖われた兄弟姉妹といっても、育ちも環境も考え方も色々と異なっていることが普通のことです。
自分の考え方、感じ方とは異なる考え方、感じ方をする兄弟姉妹であっても、あなたを愛し、イエス様を愛している兄弟姉妹であれば、その一人一人を愛して歩むものであらせてください。
何よりも、三一の主がいつもともにいてくださることを心から望みます。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。 
・・・・・・・・・・・
“愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。”(1コリント13:4-7・2017)

2021年10月25日 (月)

死んだら無になるのでしょうか?/死んだら終わりなのでしょうか?

 人は死んだら何も残らない、と考える人たちがいます。
かつての私はその様に考える人達の中の一人でした。
わたしの場合は、学校で受けた進化論教育の故でもあったのではないかと思います。
そのような事柄において、サタン(悪魔)は、成功を収めていました。
なぜそのようなことを言うかというと、
コロサイ2:8に、“あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。”(2018)と記されているからです。
口語訳はこの箇所を、“あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない。”と訳しています。

 かつての私は、人には霊も魂も無いと考えていました。
ですから、人を構成している原子は、犬やサル、地の中をうごめいている虫たちとそう変わらないものであろうと考えていたのです。
救われる前の私の話を書いていくと非常に時間がかかるので、話を変えます。

 聖書の中に、死んだ後の状態の描写の記されている箇所があります。
イエス様が語られた話の中に次のようなものがあります。ルカ16章に記されている話を下記します。
“19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
21 彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
22 しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
23 金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
24 金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
25 するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
26 そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
27 金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
28 私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
29 しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」”(2017)と記されています。

 ラザロ(ギリシア語で、ラザロス)という名前は、恐らくヘブライ語ではエルアザルという名であり、その意味は、神は助けるお方である、の意です。(Strong辞書を参照)
文面には表れていませんが、イエス様は、ラザロという名の中に、ラザロは神様を信じているということをほのめかしていたものと思います。

 イエス様は陰府(よみ)があること、よみの世界は均一ではないことを教えてくれています。

 イエス様の十字架と復活が成就した後は、イエス様を信じた人の魂と霊は直ちに天に行っています。

 旧約聖書の中にも陰府についての言及がいくつかあります。その中から、ヤハウェ(主)が語られた御言葉の一つの箇所を下記します。
“17 第十二年の、その月〔エゼキエル32:1より「B.C.586年の第12の月」(筆者挿入)〕の十五日、私〔エゼキエル(筆者挿入)〕に次のような主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕のことばがあった。
18 「人の子よ、エジプトの大軍のために嘆け。その民と力強い国々の娘たちを、穴に下る者たちとともに地下の国に下らせよ。
19 『あなたは麗しさの点でだれよりもまさっているというのか。下って行って、無割礼の者たちとともに横たわれ。』
20 彼らは、剣で刺し殺された者たちの間に倒れる。その国は剣に渡された。その国とその大軍すべてを引きずり降ろせ。
21 勇敢な勇士たちは、国を助けた者たちとともに、よみの中から彼について語る。『彼らは下って来て、剣で刺し殺された者、無割礼の者たちとともに横たわった』と。
22 そこにはアッシリアとその全集団がいる。周りには彼らの墓があり、みな、刺し殺された者、剣に倒れた者である。
23 アッシリアの墓は穴の奥〔地獄の最深部(筆者挿入)〕の方にあり、その集団はその墓の周りにいる。彼らはみな、刺し殺された者、剣に倒れた者で、生ける者の地に恐怖をもたらした者たちである〔蒔いた種を最もひどい地獄で刈り取っています(筆者挿入)〕。
24 エラムとその大軍がその墓の周りにいる。彼らはみな、刺し殺された者、剣に倒れた者で、無割礼のまま地下の国に下った者、生ける者の地に恐怖をもたらした者たちで、穴〔地獄(筆者挿入)〕に下る者とともに自らの恥辱を負っている。
25 その寝床は刺し殺された者たちの間に置かれ、その大軍すべてもその墓の周りにいる。みな、無割礼の者、剣で刺し殺された者である。彼らの恐怖が、生ける者の地にあり、穴に下る者とともに自らの恥辱を負っている。彼らは刺し殺された者たちの間に置かれる。
26 そこにはメシェクとトバル〔現トルコの中の地域の国々(筆者挿入)〕がおり、その大軍のすべてもその墓の周りにいる。みな、無割礼の者、剣で刺し殺された者で、生ける者の地に恐怖をもたらしたからである。
27 無割礼の者として倒れた勇士たちとともに彼らは横たわることはできない。勇士たちは武具を持ってよみに下り、剣は頭の下に置かれている。咎が彼らの骨の上にある。勇士たちのもたらした恐怖が、生ける者の地にあったからである。
28 しかしあなたは、無割礼の者たちの間で砕かれ、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる。
29 そこにはエドムとその王たち、そのすべての族長たちがいる。彼らは、その勇敢さにもかかわらず、剣で刺し殺された者たちとともに、無割礼の者たち、および穴に下る者たちとともに横たわる。
30 そこには北のすべての君主たち、すべてのシドン人がいる。彼らの勇敢さは恐怖をもたらしたが、恥を見、刺し殺された者たちとともに下ったのである。それで無割礼の彼らは、剣で刺し殺された者たちとともに横たわり、穴に下る者たちとともに自分たちの恥辱を負っている
31 ファラオは彼らを見て、剣で刺し殺された自分の大軍、ファラオとその全軍勢のことで慰められる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば──。
32 わたしが生ける者の地に恐怖をもたらしたので、ファラオとその大軍は、無割礼の者たちの間で、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる──神である主〔アドナイ・ヤハウェ(筆者挿入)〕のことば。」”(エゼキエル32章・2017)と記されています。

 預言者エゼキエルにヤハウェ(主)は、地獄の預言を与えています。
人は、死んだらそれで終わりではないのです。
今置かれている自分の状態が苦しいので、死んで終わりにしたいと願う人もいるでしょうが、死んで無になるわけではなく、その魂の状態は継続されていくのです。

 唯一の救いは、地上にいる間に、イエス・キリスト様を自分の救い主、主、と信じること、イエス様を心に受け入れることです。
他に方法はないのです。
 イエス様は言われました。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6・2017)と。
 ペテロは次のように語りました。
この方〔イエス・キリスト(筆者挿入)〕以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12・2017)と。

 今は背教の時代です。
キリスト教世界の中でも色々な考えが述べられています。
私は、聖書の記述を信じます。
モーセ五書の中の一つの申命記4:2には、「私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。」(2017)と記され、
聖書の中央辺りにある箴言30:6には、「神のことばに付け足しをしてはならない。神があなたを責めて、あなたが偽り者とされないために。」(2017)と記され、
聖書の終わりにある黙示録22:18.19には、「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる。」(2017)と記されています。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
もし、これを読んだ人の中に、この世からいなくなって楽になりたいと考えている人がいましたら、その思いを止め、イエス様を求めるようにさせてください。
あなたにお委ねし、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年10月24日 (日)

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 自分の善行が自分の悪行よりも多ければ天国に入ることができると考えている人が結構多くいます。

 おそらくユダヤ人は律法を守ることによって、義と認められる、すなわち神様から「あなたは正しい」と言ってもらえると思っていたのではないかと思います。

 ところが、人は律法を守ることが出来ません。
律法の根底は、神と人への愛です。

 「律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」(マタイ22:36・2017)という律法学者の質問に対して、イエス様は、次のように語られました。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40・2017)と記されています。

 愛についての定義とは言い切れませんが、愛についてパウロは次のように述べています。
「愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、
自分の利益を求めず、
苛立たず、人がした悪を心に留めず、
不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてを耐え〔あるいは「おおい」(欄外注)〕、
すべてを信じ、
すべてを望み、
すべてを忍びます。」(1コリント13:4-7・2017)と。

 ヤコブの手紙の中には次のように記されている箇所があります。
“8 もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。9 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。10 律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。”(ヤコブ2章・2017)と。

 パウロはローマ人への手紙の中で、「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10・2017)と述べています。
律法に熱心であった救われる前のパウロの場合はどのようであったのでしょうか?
パウロは次のように述べています。
「律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が『隣人のものを欲してはならない』と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。」(ローマ7:7.8抜粋・2017)と記しています。
 同じ個所を新改訳第三版は、「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。」と訳しています。

 人間同士の間で、「あの人は善人だ」と言われるような人であっても、主なる神様の前では、そのようには認められないのです。
しかし、主なる神様は行いとは別の方法、すなわち主イエス・キリスト様を信じるという信仰によって信じる者に救いをもたらしてくださったのです。
ローマ人への手紙3章には次のように記されています。
ローマ3:21-28をリビングバイブル(旧版)は次のように意訳しています。
“21.22 しかし今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
23 そうです。
すべての人は罪を犯しました。
神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
24 けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。
25 神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
26 そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。
27 それでは、救われるために、私たちは何か誇れるようなことをしたでしょうか。
何もしていません。
なぜでしょう。
私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。
それは、キリスト様が成し遂げてくださったことと、キリスト様に対する私たちの信仰に基づいているのです。
28 つまり、私たちが救われるのは、キリスト様を信じる信仰だけによるのであって、善行によるのではありません。”とあります。

 上記27節の中に、“それは、キリスト様が成し遂げてくださったことと、キリスト様に対する私たちの信仰に基づいているのです。”という箇所があります。

 これと同じことをエペソ2:8は、「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(2017)と述べています。

 善き行いは、救われた後に、主なる神様が私たちを変えてくださることによって行うことが出来るようになっていくのです。

使徒ペテロは次のように述べています。
“3 私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。
4 その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです
5 だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。”(2ペテロ1章・2017)と記されています。

 パウロは、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(2コリント3:18・新共同訳)と述べました。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私たちは皆、罪をもって生まれ、人に教えてもらわなくても様々な罪、すなわちあなたのみ旨に反することどもを犯してきた者です。
それ故、行いによっては、天にあるあなたの御国に入ることは出来ない者でした。
しかし、罪なき神のひとり子であられ、霊のお身体を持っておられる御子が、私たちの罪とその罰を、身代わりとして引き受けるために、肉体を纏われてマリアから誕生され、十字架の上で贖いを成し遂げてくださいましたことを感謝します。
私たちはイエス様の贖いにより、また、イエス様を信じさせて頂けたことの故に、主の霊の働きによって、神の御性質に似たものとしてつくり変えられ中であることを覚えて感謝します。
すべてのキリスト者は、つくり変えられ中ですから、お互いに忍び合い、赦し合いながら、共に主を賛美しつつ、地上生涯を歩んでいくことができますように。
唯々、三一の主なる神様の御名をほめたたえ、私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。

2021年10月23日 (土)

申命記24:1-4 離婚、再婚についての規定(2018.3.30にupしたつもりがupされていなかった原稿です)

“24:1人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。
24:2
女がその家を出てのち、行って、ほかの人にとつぎ、
24:3
後の夫も彼女をきらって、離縁状を書き、その手に渡して家を去らせるか、または妻にめとった後の夫が死んだときは、
24:4
彼女はすでに身を汚したのちであるから、彼女を去らせた先の夫は、ふたたび彼女を妻にめとることはできない。これは主の前に憎むべき事だからである。あなたの神、主が嗣業としてあなたに与えられる地に罪を負わせてはならない。(口語訳1955

 1節には、「人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。」とあります。
「恥ずべきこと」とは、何を意味するのでしょうか。
「恥ずべきこと」と訳された原語は、「エルヴァ・ダーバー(ル)」です。「ダーバー(ル)」は、言葉、事柄、もの、原因等の意味があります。「エルヴァ」は、裸、外陰部、(美・完全を損なうような)傷、欠点、汚点等の意味があります。申命記2314の「エルヴァ・ダーバー」を新改訳第三版は「醜いもの」と訳しています。新改訳2017は「恥ずべきもの」と訳しています。申命記2220.21によると、淫行は石打による死刑でしたから、この箇所の「恥ずべきこと」は、淫行以外の事柄であったと思います。ですから、「エルヴァ・ダーバー」は、夫にとって、受け入れられない何か、であったのではないかと推測します。
1
節は、妻の何か(外見、言葉、事柄・・)を、夫が離縁するしかないと思うほどに受け入れることのできない場合には、ただ追い出してしまうのではなく、離縁状を書いて彼女に渡して離縁しなければならない、ということであろうと思います。

 元来、ヤハウェ(主)なる神様は、夫婦の離婚を嫌っていました。特に夫の横暴で離婚するということなどもってのほかでした。旧約聖書の他の個所に、
“2:14
「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。
2:15 神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。
2:16
「妻を憎んで離婚するなら、──イスラエルの神、主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる──暴虐がその者の衣をおおう〔離婚する人は、不法でその上着を覆っていると(新共同訳)〕。──万軍の主〔ヤハウェ(筆者挿入)〕は言われる。」あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない。(マラキ・新改訳2017)と記されています。

 次にイエス様が語られた御言葉を見ることにします。
マタイ531.32には、「また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。」(口語訳)と記されています。
別の言い方をすると、不品行以外の理由で妻と離縁しても、主なる神様は、離縁を認めていない、ということでしょう。ですから、離縁された妻と性的関係を持つ者は、そのどちらも姦淫を犯したことになるのだろうと思います。

 マタイ193には、パリサイ人たちが、イエス様に、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」(3・新共同訳))と質問した、とあります。
この質問に対するイエス様の答えが、4-9節に、
“19:4
イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、
19:5
そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。
19:6
彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
19:7
彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。
19:8
イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。
19:9
そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。(口語訳)と記されています。
イエス様は、申命記241の主の命令は、人がかたくなであるがゆえに、譲歩した命令であった、と語られたのです(マタイ198)。

 結婚の奥義がエペソ531.32に、「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。(口語訳)と記されています。
夫である主イエス様が、妻である教会(キリスト者の総体)を構成する一人一人に、あなたの~を受け入れることができない、・・・は嫌いだ、と言われたとしたら、キリスト者は誰も主イエス様の妻となることは出来ないでしょう。主イエス様は、ご自身が流された血によって「きよく傷のない者」(エペソ14、ヘブル1010)としてくださったのです。
主イエス様は、「怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容」(1テサロニケ514・口語訳)に接してくださっておられるのです。

 <お祈り>
天のお父様。
あなたの御名をほめたたえます。
イエス様の花嫁の一員としてくださいましたことを感謝します。
父なる神の子どもとして、主イエス様の花嫁としてふさわしい歩みをさせて頂けますように。
主イエス・キリスト様の御名でお祈りします。アーメン

主を賛美することのすばらしさ

 ピリピ4:6.7に次のような聖句があります。
 2017は、“何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。”と訳し、
 リビングバイブルの旧版は、“何事も心配してはなりません。むしろ、どんなことでも祈りなさい。神様にお願いしなさい。そして、祈りに答えてくださる神様に感謝するのを、忘れてはなりません。そうすれば、人間の理解をはるかに超えた、すばらしい神様の平安を経験できます。キリスト・イエスに頼る時、その平安は、あなたがたの心と思いとを静め、安らかにしてくれるのです。”と意訳しています。

 心配事があると、私たちはその心配事に支配されてしまします。
自分で解決できるようなことは誰も心配しません。
心配事があるとき、心配事、思い煩いを、一度脇に置いて、先ず主なる神様を賛美する(ほめたたえる)と、或いは賛美し続ける(ほめたたえ続ける)とそれだけで問題が解決してしまうことがあります。
 
 神様の天地創造の御業の偉大さを賛美していると神様の全能の力が如何程のものであるのか、ということに心が留まります。
アインシュタインは、E=MC²という法則を提示してくださいました。
M(質量)=E(エネルギー)/C(光速度)²と書くこともできると思います。
神様は無から有を創りだしたのです。
信じられないほどのエネルギーが必要であるということが上記の式より分かります。

 イエス様は言われました。
あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1・2017)と。

 聖歌の中に
「望みも消えゆくまでに 世の嵐に沈むとき 数えてみよ 主の恵み なが心は安きを得ん」という歌詞があります。
ただ数えるだけではなく、イエス様によって救っていただく前の自分の状態を思い起こし、そこからイエス様によって救って頂いた後の一つ一つの出来事について感謝と賛美の祈りをささげていくとき、主なる神様の真実及び愛に感動し、心が満たされることと思います。
そして、今度の心配事も大丈夫だ、となるのです。
イエス様は、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」とお語りくださるのです。

 神は全能です。
 神は全知です。
 神は全き愛のお方です。
 神は真実、誠実、契約を守るお方です。
 私たちはこの神に祈り求めているのです。
 それもご自身の身を捨ててまで愛してくださった主イエス様の御名によってor御名の中でor御名を通して祈らせて頂けるのです。
 聖霊の助けを頂きながら。

 「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」(マタイ28:18・2017)とイエス様は言うことの出来る権威を持っておられるお方です。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
私は今まで、三一の主に助けられ続けてここまで来ました。
これからも、信じられないほど愛してくださり、とこしえに養ってくださり、助け、導き、支え、・・・してくださいますから御名を崇めて感謝します。
あなたの御名をほめたたえ私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・
“一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。
一人の男の子がわたしたちに与えられた。
主権がその肩にあり、
その名は、「驚くべき指導者〔別訳「助言者」(欄外注)〕、力ある神
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。”{イザヤ9:5・聖書協会共同訳(新改訳、口語訳は、9:6)}

2021年10月22日 (金)

祈りの家

 イエス様は宮について、「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」(マタイ21:13・2017)と語られたことがあります。

 この箇所は、「宮きよめ」と呼ばれている箇所の中にあります。この聖句が語られた宮きよめの箇所は、マタイ21:12.13に次のように記されています。
“12 それから、イエスは宮に入って〔神殿の境内に入り(新共同訳)〕、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」”とあります。

 イエス様の十字架と復活の後、イエス様を信じる者に聖霊が住まわれました。
聖霊がイエス様を信じる者の内に住んでくださることを、最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちに語られました。
 ヨハネ14:16.17に次のように記されています。
“16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。”(2017)とあります。

 聖霊が与えられるのは、11弟子だけではありませんでした。イエス様を信じる者すべてに与えられたのです。
1コリント3:16には、“あなたがたは、自分が神の宮〔神の神殿(新共同訳)〕であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。”(2017)と記され、
更に、
1コリント6章には、“19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり〔神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり(新共同訳)〕、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。”(2017)
と記されています。

 キリスト者の体は神の神殿です。
ですから、キリスト者である私たちに対して、主なる神様は、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」と言うこともお出来になるのです。
そのことを思うとき、私などは、もっと祈る必要があることを覚えます。

 エペソ6:18には、「絶え間なき祈りと願いとによって、どのような時でも霊にあって祈りなさい。またその〔祈りの(訳者挿入)〕ために〔霊的に(筆者挿入)〕目を覚ましていなさい、すべての聖なる者たちのために最大限の根気強さをもって〔神の執り成しを(訳者挿入)〕願いつつ。」(岩波訳)と記されています。
「霊にあって」と訳されている語の原語は、ギリシア語で、「エン プニューマティ」で、“in spirit”です。この箇所の霊には定冠詞はついていません。

 イエス様は、天でとりなしの祈りをしておられます。
ローマ8:34には、“だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。”(2017)と記されています。
私たちの霊の内におられるキリスト・イエス様は、私たちの内にあってもとりなしの祈りを導かれるのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
主と一つとされている霊においてもっと祈ることができますよう祝福してください。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ローマ8:9抜粋・新共同訳)
「主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。」(1コリント6:17抜粋・聖書協会共同訳)

2021年10月21日 (木)

マタイ5章3節

 マタイ5:3を
 2017は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」と訳し、
 
 聖書協会共同訳は、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と訳し、「心の貧しい人々」について、直訳は「霊において貧しい人々」と欄外に注しています。

 NIV訳は、“Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.”と記されています。

 日本語訳聖書の多くが、「心」と訳した原語は「プニューマ」で「霊」です。
聖書協会共同訳の欄外注には、「霊において貧しい人々」と記されています。
NIV訳やKJV訳NKJV訳等の英語訳聖書は、「霊において貧しい人々」の意で訳されています。

 心は、新生されていない人も持っています。
 心は、感情の主体(ローマ9:2)であり、かつ思考活動の主体(ローマ1:21)であり、また意志の主体(ダニエル1:8)であることが、( )内の聖書箇所etc.により理解されます。
 
 新生されていない人の心は神と交わることが出来ません。
神との交わりは霊によるのですから。

 次に「天の御国」or「天の国」or「the kingdom of heaven」について考察してみます。

 「国」と訳されている語の原語は、ギリシア語の「バシレイア」で、国の領土、王族、規則、支配、統治、・・・の意があります。

 少し話が飛びますが、1コリント15:24には、“それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。”(2017)という聖句があります。
この聖句からは、最終的に王国は御父のものとされ、その前には、キリストが王として君臨していることが分かります。キリストが、天においても地においても、すべての権威が与えられた(マタイ28:18)のは、推測ですが、復活されて御父の右の座につかれた時(マルコ16:19)だろうと思います。
それ故、天の王国の主権者、所有者は、御父や御子です。

 「貧しい」と訳されている語のギリシア語原語は、「プトーコス」で、beggar(物乞い、貧乏人)の意です。
また、新生された霊についてですが、その霊は、“主と交われば、一つ霊となるのです。”(1コリント6:17・第三版)と記されています。
新生された霊が、霊である主に、私の霊の内に満ち満ちてください、と願うのが貧しい霊、物乞いの霊であろうと思います。
そのような状態は、パウロが、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20・2017)と述べた状態でしょう。

 以上のようなことどもを考えて
、マタイ5:3を、「幸いなるかな。霊においてへりくだり、復活のキリスト・イエス様に満ちていただくことを願う者は。神の支配はその人のものです(神がすべてにおいて支配してくださるのです)。」という解釈で捉えると、この御言葉は、まさしく現在の信仰生活にあてはまるものだと思います。
そしてこれは永遠へと続くのです。

<お祈り>
天のお父様。
あなたの御名を崇めます。
イエス様が内に満ちてくださいますように。
私たちの主キリスト・イエス様の御名で祈ります。アーメン。 
・・・・・・・・・・・・・
“1 全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。
2 喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
3 知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。私たちは主のもの主の民その牧場の羊。
4 感謝しつつ主の門に賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。
5 主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまでその真実は代々に至る。”(詩篇100篇・2017)

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